よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

№28「早起きは三文の得」について。

№28「早起きは三文の得」について。

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水戸芸術館会館25周年記念事業「カフェ・イン・水戸 R」は比野克彦さんをプロジェクト・ディレクターに迎え「Re MITO100(リミット100)」を開催している。

水戸の人も知らない水戸を、水戸の人によって水戸の人に見てもらう――をコンセプトとしたこのプロジェクトは、水戸再発見で自分を再発見する場でもある。手引きとなる赤い表紙の「リミット100・ガイドブック」を片手に、自分なりの「水戸の100」を探してみよう、と云う企画だ。


№28「早起きは三文の得」のイベント「お掃除おじさんと掃除をする」が9月5日(土)5:30~7;00に開催される。
「西の谷のお掃除をしよう」と云うことだが、街中の公園「西の谷」の歴史や地形を知り、自然あふれる緑地を守り育てて行こう。と云うのが趣旨だ。

集合場所は千波公園・西の谷の駐車場。
準備は軍手やゴミを拾う袋など。
申し込みは必要なく、定員も有りません。

西の谷の歴史は?

水戸城の一番西に位置した濠(ほり)の名残。
青川に沿って栄町から八幡宮まで南北に縦断した谷あい。
明治までは水をたたえている所もあった。

以前は、濠沿いの土手には多数の松が植えられていた。
二抱えも有る老松もあって、水戸の要害だった。
隣接する「神崎寺」の敷地の一部、と云う感じでもあった。

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明治28年刊の「常磐公園攬勝図誌.」(上,下巻 / 松平俊雄 編述)の「妙法崎」として木版画を見ると状況が分かる。当時は岬の先端から滝も流れていた。
高さ2丈(8m)、幅4尺(1.6m)(1丈は10尺)
安積澹泊の詩文も掲載されているが、瀑泉石を穿つ、とあるからかなりの水量だったろう。この一帯は、神崎或いは妙法崎と呼ばれた。

安積澹泊は水戸黄門でおなじみ「格さん」のモデル安積覚兵衛(彰考館総裁・1737年没)で学者だ。


神崎寺があるから「神崎」とも呼ばれ「神崎八景」を読んでいる。
①丸山の早桜 ②籔田の流蛍 ③千波の涼月 ④筑波の箐雪(せいせつ・雪が晴れた筑波遠望)⑤蓮池の板橋 ⑥妙法の瀑泉 ⑦緑岡の蒼松 ⑧笠原の紅楓
である。(漢字で変換できない字も有るから、多少の誤りがある)

次は、稲葉寿郎さんのブログからの引用だが、

『光圀の行動を細かく記した「日乗上人日記」には、光圀は元禄12年3月19日(旧暦)に神崎寺で歌を詠んだという記述が見られます。光圀の詩文集『常山文集』巻5には、「神崎寺観桜」という題の漢詩が残されています。
  山桜春引杖 歩扣梵王宮 埋緑松間雪 散花蘭若風
  幢幡翻白動 瓔珞帯香濃 人世幾回日 頻斟楽可窮

現在、寺の東面は西の谷公園が整備され、桜も植えられていますが、神崎寺も含めて歴史的背景のある千本桜の一角に位置付けたい場所です。

 郷土史家網代茂氏は、この神崎寺に黄門さまの桜の歌碑をつくってもいいのではという提案をされていますが、大いに賛同します。
境内か西の谷の一角に歌碑があると、千本桜を周遊するスト―リー性が生まれると思います。一考の余地ありと考えます。』

参考:網代茂『水府異聞』(新いばらきタイムス・1989) 以上


神崎寺には1687年に寺の境内から出土した銅鋳製の経筒も知られている。
一時、水戸光圀に献上されたが、書写の後、神崎寺が保管(県指定文化財。)

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西の谷・神崎の一帯の地盤は凝灰岩で、岩盤を切り出して笠原水道の岩樋や溜桝に使用された。幕末に近くに大砲の鋳造所が作られ、その施設にも利用された。
寛永年間から鉄砲細工所が在った神崎三間町を工場にして4基の溶鉱炉が据えられた。銅2000貫、御用鋳物師の下職人120人が鋳造に励み、この地で291門の大砲が造られた。

大正10年濠を埋め立て旧鳥見町と元山町を結ぶ新設道路・金魚坂が出来た。
大正時代辺りから濠あとは泥が深かったが田圃となった。
中央に「青川」と呼ばれた小川が流れていた。
これは戦後の昭和20年代も変わらない。
私が子供の頃、上流の金魚の養殖池から、大雨であふれた池から金魚が流れて来るので掬いに行った。

何時から何時頃までのことか、金魚屋さんで創業の時期を確認すれば分かることだが。
今はトンネルとなった東の谷(紀州堀)にも金魚屋が在った。
僕の同級生の家で遊びに行ったから良く覚えている。

その脇には「まんばい」という風呂屋か料亭の跡も在っただが、今では10メートル位下に埋まっている。

西の谷、戦後しばらくは田圃だった。
大蛇が住んでいる、と云う様な伝説も有ったらしいが今ではトンと聞かない。埋め立てられて今の様になったのは、佐川市長の時代。
谷をどのように生かすかコンペも行われた。

そして、緑地公園となったが、市長が変ると前任者の事業には予算が付かない。
更に市長が変って、10年前に桜の植樹がされた頃から再び予算が付き、手入れされるようになった。

現状は?
曲がりなりにも手入れがされるようになったが、年に3回くらい草刈りが入る程度、しかも、予算の都合でエリアは変わる。

今年度から野草・薬草園が新設された。
初年度ゆえ成果はいま一つに思えるが、年を追うごとに根付くと思われる。
もう一つは石を配した清流。
これは9月末に完成予定だが、竣工後も手入れがなされないと、清流は保たれない。

西の谷の役目と必要なものは?

四季折々の自然観察しながら目的地に向かう、ロータリー。
安全に通行できる照明設備は是非とも必要。

「西の谷を街中の緑地として大切に保存し、活性化につなげられないか」と云う話を聞くようになった。
なかには、新市民会館の予備の駐車場、若干の遊具を備えたミニ・プレイグランド、の案などは現場を見ない・知らない人の空論で論外だ。

「駐車場」は既に100台以上あって、常時駐車されているが、公園利用者では無く、全ては街中に勤める人達の無料駐車場。

「子供達の公園」遊具がなくても犬の散歩や家族連れが来ることはあるが、芝生の広場が刈り込まれている期間は少なく、大概は草が伸びている。
時には、芝生の保護の名目で除草剤もまかれる。
南北に細長く東西が狭いから日照時間が少ない。
ベンチが沢山置かれているが、使用された例は無く、間もなく朽ち果てるのを待つだけだ。

東側の通路は日当たりが悪く、落ち葉の清掃もされないから足元は良くない。
この掃き掃除は予算外だから、市の関係者は誰もしない。
僕が、たまにする程度では、とても追いつかない。

思いもよらない事件が起こるこの時代、何より安全が優先なのは論を待たない。
日没後1時間も経って行ってみれば充分わかるだろうが、懐中電灯でも持参しないと危なくて歩けない。
照明が少ないからで、特に木の階段付近は真っ暗になる。

先ずは照明設備だが予算が掛かる。
地下埋設、等考えるからで電柱を立てればさほどの経費は掛からない。

奥の部分が薬草園などに成りつつあるが、給水の設備がない。幾ら植栽しても水やりが出来なければ植物は育たない。
イベントの際も使用できる。

西の谷はロタリーのようなところでいかなる方向にも行ける。
案内板と大工町方面、神崎寺に向かう階段から国道に出る通路の拡幅する必要はある。

近年まで、神崎寺の裏山には綴れ坂に沿っての物が配されたところを通行できたが、今は荒れ果てている。
西の谷の整備には神崎寺の協力が必要だが、市や公園協会はどう考えているのだろうか。

  1. 2015/09/04(金) 14:36:14|
  2. 西の谷
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Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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