よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

「徳川慶喜」展@茨城県立歴史館

「徳川慶喜」展@茨城県立歴史館
2月7日~3月22日


P2272114.jpg


今日から3月に入った。水戸の梅祭りは〔第2観梅デー〕として野点茶会〈石州流〉なども用意されていたが、あいにくの雨。
梅の季節は季節の変わり目、雨も嵐もある。

満開の花もあれば、蕾もある。
桜と違って、春の魁。
天候や咲き具合、それぞれに応じて愉しむのが梅に対する感じ方と思う。

3月22日まで茨城県立歴史館で「徳川慶喜」展が開催されている。


サブタイトルに、
『正統なる英傑(カリスマ)か。偉才の異端児(アウトサイダー)か。』
とあるように、家康以来の資質、教養に関して言えば家康、吉宗を遥かに凌ぐと言われた徳川15代将軍、慶喜 《1837(天保8)年~1913(大正2)年 77歳》。

将軍に就任し、果断に幕政改革を進めたが,将軍在位1年で江戸開城への道を開き,水戸ついで静岡で謹慎し、後半生は政治的沈黙を貫いた。


江戸の無血開城がなければ、内乱は避けられなかったろうし、列強の植民地になる危険性もあった。

徳川慶喜 志士風

背広の上下を、勤王の志士風に着こなした姿は、将軍とは思えない。
幕府と朝廷との板挟みに会いながら、京都を舞台にして苦闘を続けた。


ヨーロッパの先進性を十分に承知し、時代を読む眼力に富んだ傑物であったのは間違いない。

慶喜フランス軍服

フランス軍の軍服を着用し、自らがフランス料理を振る舞い、各国公使との交流に取り組むなど、 伝統的な将軍のあり方を打破した。

1867年の「パリ万博」に弟昭武を将軍の代わりに派遣した。
昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら、当時最高の知的エリートの人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになる。
渋沢栄一は、後に日本の実業界の父と言えるほど数多くの会社を設立した。
今でもかなりの会社が当時のまま、または合併などで名称を変えつつ大企業として存続している。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、財閥を形成しなかったことも渋沢の見識だ。
徳川慶喜は間接的に今の日本企業社会を作らせたことになる。
渋沢栄一も、何かと面倒を見てもらった慶喜に深く感謝し、後年、慶喜に対する悪い評論を払拭すべく、『徳川慶喜公伝』(全7巻)を刊行した。
*現在・常陽史料館で展示中。


徳川慶喜は、江戸の火消しの親分である新門辰五郎と仲がよかった。
辰五郎の娘・お芳が慶喜の側室だった。ともいわれ、慶喜が最後に京都に出向いた際は、高齢である辰五郎も部下を率いて警護役として従っている。


徳川慶喜は評価が難しいとされてきた人物。
慶喜という人物を再評価してみる必要があるのではないか。
評価というものは、時とともに変わるものだ。
  1. 2015/03/01(日) 17:12:44|
  2. 博物館
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
<<班目和彦 展  @ギャラリーしえる | ホーム | 日本料理・うんの @水戸市水府町1498−6>>

コメント

来館

はじめまして。この日、来館しました。2階の常備展も良かったです。観ている人が2~3人しかいませんでした。斉昭公から武田耕雲斉あての書状、家臣のパネルもありました。後期展示を観に行きます。
  1. 2015/03/12(木) 10:28:12 |
  2. URL |
  3. やぶひび #amXlFcx2
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yochan310.blog98.fc2.com/tb.php/2021-c2ae7e94
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する