2008/12/08
寺西恵然との出会い
彫刻家・後藤誠一さんの評伝を1990年に出版しました。
その後に、新たに分かったことや、調べたことを随時掲載してゆくシリーズの2回目です。
長い文章かもしれませんが、お付き合い戴きたく思います。
水戸真宗会堂々主 寺西恵然との出会い。
後藤が浄土真宗の僧侶近角常観の主宰する求道会館に通うようになったのは何故だろうか。
1919(大正8)年3月、東京美術学校彫刻選科を卒業し研究科に進学した頃、後藤は、恋愛問題で悩んでいた。相手の女性は水戸商業学校時代の同級生山口義雄の妹房子で後藤より八歳年下だった。
当時、彫刻や絵画など芸術の道を志す人達は世俗的に落ちこぼれとみられた。それは半ば当然で、現在でも芸術家が生活を維持する収入を得る事は難しい。27歳になっていた後藤は一家を構えて生活できる稼ぎはなかった。房子への愛の想いが募っても周囲の状況は進展しない。とにかく、一つの事を考え始めると、他の事は全く見えなくなってしまうのが後藤の性分だ。
悩んだ末、残された道は只ひとつ、死ぬほかない、と思い詰めた。
とにかく水戸へ帰ろう。と東京を後にした。途中に関東平野に聳える筑波山がある。
筑波山中で命を絶とう。と気持ちが変わり山頂に向った。そのうち夜になり月が昇って来た。
月は刻々と位置を変えてゆく。その有様を見ているうち、宇宙の雄大な営みに対して自分のちっぽけな悩み。と思い至り死ぬ事は踏みとどまった。
夏ではあったが、寒い山中で一夜を過ごし、翌朝水戸に向った。
自殺するのは思いとどまったが、人間は何故生きるのか、疑問は解けない。
実家に帰っても部屋に閉じ篭り、悶々と悩み続けた。
再婚した母親の嫁ぎ先は近所で、これまでも何かある度、母は実家に呼び出された。
今回、死を思いつめているかのような清一を見て、何か手立ては無いかと考えた。
再婚先で生まれた長男の知雄(清一の異父弟)の提案で竹隈町(現・東台一丁目)に在った「真宗会堂」に行き堂主・寺西恵念の法話を聞くことにした。
恵念の法話を聞くうち、生きる希望がふつふつと湧いてきたという。
それから以後、真宗会堂に足繁く通う様になった。後藤に大きな影響を与えた寺西恵念とは如何なる人であったのか。恵念の長男・寺西諄信(京都市左京区在住)さんは1996年、問い合わせに対して、次のような原稿を送ってくれた。
ふたり
明治に生まれ、大正デモクラシーの風潮に浴すや、やがて強まる軍部勢力下の昭和の初期を、茨城県水戸で過す二人の人物がいました。
いささか大仰な語り口調に落ちましたが、筑波下ろしにも凍えぬ気骨と、太平洋の海鳴りにも押し潰されない強靭な心意気を膨らませ、しかも真摯な使命感にも似たこころ在を胸に、時には夜を徹して語らう若きふたりだったに違いないと思うからです。
あまりにも、烈しい情熱ゆえに、至上の魂と世俗の情念に悶々と苦悩し、しかも高らかに謳うことを忘れず、時には仏法に耳を傾け、また時には芸術について、そして何より人間について、その深淵の極みまで赤裸々に洞察を培う二人だったに違いありません。
その一人は、構造社展、文展、日展の日本の近・現代の美術を彫刻と共に生きた彫刻家の後藤清一氏であり、もう一人は、後に私の父となる西恩寺住職の寺西恵然でした。その時、後藤氏は明治二十六年の生まれの二十六歳、寺西は同二十五年生まれの二十七歳でした。二人は、文字通り血気盛ん、前途洋々たる青年だった訳です。
今となっては、残念ながら、二人の機縁、尽きせぬ交友を詳らかにする由もないのですが、ただ一つはっきりしていることは、石川県生まれの父が、水戸に滞在していた事情です。
父は、真宗大谷派東本願寺の布教師として常陸の教化布教のため、水戸真宗会堂々主を務めておりました。大正八年から昭和九年にかけての十五年のことでしたが、この間、「関東聖跡巡礼」、「原始真宗のあと」を著すなど真宗史の研究を続ける傍ら、関東一円の布教に東奔西走していたようです。
不覚にも、真宗会堂がどのようなものであったのかは分かりませんが、何よりも教化布教の場であったとすれば、老若男女が三々五々自由に参集できる開かれた集会所でもあったわ訳です。後藤氏と父の親交が始まったのは、こうした祈りだったようです。
そんな時、後藤氏の芸術家たるがゆえの苦悩にも似た烈しくも熱き心情、一方、法を説く父の宗教家としての諄々足る思いが、期せずして二人の意気高揚をいやが上にも
増して行くことになったのでしょう。各々志を異にしても、若き二人には言い尽くせぬ肝胆相照らすものがあったに違いありません。
その後父は、東京九段の仏教会館々を経て、さらに輪番として京都の岡崎別院、富山の井波別院へと赴任することになるのですが、晩年の余生は、その任のもっとも長かった京都で過すこととになります。その京都に、後藤氏の来訪が数度はあったように憶えております。
かつて、彫刻家ジャコメティが仏文学者の矢内原伊作氏をモデルに自分の肖像を制作した話題は広く知られたことでしたが、何故か、後藤氏のお姿からもまた矢内原伊作氏、否ジャコメティに通じるお顔だと強い印象を抱いたものです。以来、年々覚束ない足取りになる父に随行しては、日展の京都展を楽しみに、新春の市立美術館に赴くことになりました。
作品の前の父は、ステッキを身体の支えにしたまま、かなりの時間そこにたちつくしておりました。その姿は、作品を鑑賞するというよりは後藤氏との再会を喜び、何かを語り掛けているようでもありました。はたして何を語り掛け、どんな思いに頷いていたのかは、もちろん私の耳に届くはずもありません。
ところで、マッチ箱同然の拙宅には、後藤氏の手になる二十センチほどのブロンズの仏像の首が、幾星霜のなかに静かに輝いております。不思議な艶と香り、そして天女の奏でる妙なる音色までが幽かに伝わり、それはまるで極楽荘厳の世界を思わせるか如くの崇高なブロンズであります。
晩年、父は「穏やかな人」、「静かな人」といわれ、時には若いものからは「綺麗なお爺さん」とよばれたりもしておりました。後藤氏の作品の前に立つときの父の顔がやはりそうだったのです。それは極楽荘厳の前に立ち、作者後藤氏と語る至高の楽しみをこぼす表情だったのかもしれません。二人の心通わすが如きこんな情景に、年甲斐も無く私は、羨望にも似た思いをだいたりもしたものです。
そんな父は昭和五十一年、八十四歳で他界し、後藤氏もまた五十九年、九十歳でその生涯を終えられました。いつしか、それから既に十三年が経とうとしております。
合掌。
寺西諄信さんは長らく中学校の先生をなさり、現在はボランティア活動や四国八十八ヵ所の巡礼をされている。僕は昨年(二〇〇七年十一月)京都でお目にかかった。それ以前も二度お目にかかる機会が有った。何時もお忙しいようで、詳しいお話を未だに訊くことが出来ないないのが残念だ。
その後に、新たに分かったことや、調べたことを随時掲載してゆくシリーズの2回目です。
長い文章かもしれませんが、お付き合い戴きたく思います。
水戸真宗会堂々主 寺西恵然との出会い。
後藤が浄土真宗の僧侶近角常観の主宰する求道会館に通うようになったのは何故だろうか。
1919(大正8)年3月、東京美術学校彫刻選科を卒業し研究科に進学した頃、後藤は、恋愛問題で悩んでいた。相手の女性は水戸商業学校時代の同級生山口義雄の妹房子で後藤より八歳年下だった。
当時、彫刻や絵画など芸術の道を志す人達は世俗的に落ちこぼれとみられた。それは半ば当然で、現在でも芸術家が生活を維持する収入を得る事は難しい。27歳になっていた後藤は一家を構えて生活できる稼ぎはなかった。房子への愛の想いが募っても周囲の状況は進展しない。とにかく、一つの事を考え始めると、他の事は全く見えなくなってしまうのが後藤の性分だ。
悩んだ末、残された道は只ひとつ、死ぬほかない、と思い詰めた。
とにかく水戸へ帰ろう。と東京を後にした。途中に関東平野に聳える筑波山がある。
筑波山中で命を絶とう。と気持ちが変わり山頂に向った。そのうち夜になり月が昇って来た。
月は刻々と位置を変えてゆく。その有様を見ているうち、宇宙の雄大な営みに対して自分のちっぽけな悩み。と思い至り死ぬ事は踏みとどまった。
夏ではあったが、寒い山中で一夜を過ごし、翌朝水戸に向った。
自殺するのは思いとどまったが、人間は何故生きるのか、疑問は解けない。
実家に帰っても部屋に閉じ篭り、悶々と悩み続けた。
再婚した母親の嫁ぎ先は近所で、これまでも何かある度、母は実家に呼び出された。
今回、死を思いつめているかのような清一を見て、何か手立ては無いかと考えた。
再婚先で生まれた長男の知雄(清一の異父弟)の提案で竹隈町(現・東台一丁目)に在った「真宗会堂」に行き堂主・寺西恵念の法話を聞くことにした。
恵念の法話を聞くうち、生きる希望がふつふつと湧いてきたという。
それから以後、真宗会堂に足繁く通う様になった。後藤に大きな影響を与えた寺西恵念とは如何なる人であったのか。恵念の長男・寺西諄信(京都市左京区在住)さんは1996年、問い合わせに対して、次のような原稿を送ってくれた。
ふたり
明治に生まれ、大正デモクラシーの風潮に浴すや、やがて強まる軍部勢力下の昭和の初期を、茨城県水戸で過す二人の人物がいました。
いささか大仰な語り口調に落ちましたが、筑波下ろしにも凍えぬ気骨と、太平洋の海鳴りにも押し潰されない強靭な心意気を膨らませ、しかも真摯な使命感にも似たこころ在を胸に、時には夜を徹して語らう若きふたりだったに違いないと思うからです。
あまりにも、烈しい情熱ゆえに、至上の魂と世俗の情念に悶々と苦悩し、しかも高らかに謳うことを忘れず、時には仏法に耳を傾け、また時には芸術について、そして何より人間について、その深淵の極みまで赤裸々に洞察を培う二人だったに違いありません。
その一人は、構造社展、文展、日展の日本の近・現代の美術を彫刻と共に生きた彫刻家の後藤清一氏であり、もう一人は、後に私の父となる西恩寺住職の寺西恵然でした。その時、後藤氏は明治二十六年の生まれの二十六歳、寺西は同二十五年生まれの二十七歳でした。二人は、文字通り血気盛ん、前途洋々たる青年だった訳です。
今となっては、残念ながら、二人の機縁、尽きせぬ交友を詳らかにする由もないのですが、ただ一つはっきりしていることは、石川県生まれの父が、水戸に滞在していた事情です。
父は、真宗大谷派東本願寺の布教師として常陸の教化布教のため、水戸真宗会堂々主を務めておりました。大正八年から昭和九年にかけての十五年のことでしたが、この間、「関東聖跡巡礼」、「原始真宗のあと」を著すなど真宗史の研究を続ける傍ら、関東一円の布教に東奔西走していたようです。
不覚にも、真宗会堂がどのようなものであったのかは分かりませんが、何よりも教化布教の場であったとすれば、老若男女が三々五々自由に参集できる開かれた集会所でもあったわ訳です。後藤氏と父の親交が始まったのは、こうした祈りだったようです。
そんな時、後藤氏の芸術家たるがゆえの苦悩にも似た烈しくも熱き心情、一方、法を説く父の宗教家としての諄々足る思いが、期せずして二人の意気高揚をいやが上にも
増して行くことになったのでしょう。各々志を異にしても、若き二人には言い尽くせぬ肝胆相照らすものがあったに違いありません。
その後父は、東京九段の仏教会館々を経て、さらに輪番として京都の岡崎別院、富山の井波別院へと赴任することになるのですが、晩年の余生は、その任のもっとも長かった京都で過すこととになります。その京都に、後藤氏の来訪が数度はあったように憶えております。
かつて、彫刻家ジャコメティが仏文学者の矢内原伊作氏をモデルに自分の肖像を制作した話題は広く知られたことでしたが、何故か、後藤氏のお姿からもまた矢内原伊作氏、否ジャコメティに通じるお顔だと強い印象を抱いたものです。以来、年々覚束ない足取りになる父に随行しては、日展の京都展を楽しみに、新春の市立美術館に赴くことになりました。
作品の前の父は、ステッキを身体の支えにしたまま、かなりの時間そこにたちつくしておりました。その姿は、作品を鑑賞するというよりは後藤氏との再会を喜び、何かを語り掛けているようでもありました。はたして何を語り掛け、どんな思いに頷いていたのかは、もちろん私の耳に届くはずもありません。
ところで、マッチ箱同然の拙宅には、後藤氏の手になる二十センチほどのブロンズの仏像の首が、幾星霜のなかに静かに輝いております。不思議な艶と香り、そして天女の奏でる妙なる音色までが幽かに伝わり、それはまるで極楽荘厳の世界を思わせるか如くの崇高なブロンズであります。
晩年、父は「穏やかな人」、「静かな人」といわれ、時には若いものからは「綺麗なお爺さん」とよばれたりもしておりました。後藤氏の作品の前に立つときの父の顔がやはりそうだったのです。それは極楽荘厳の前に立ち、作者後藤氏と語る至高の楽しみをこぼす表情だったのかもしれません。二人の心通わすが如きこんな情景に、年甲斐も無く私は、羨望にも似た思いをだいたりもしたものです。
そんな父は昭和五十一年、八十四歳で他界し、後藤氏もまた五十九年、九十歳でその生涯を終えられました。いつしか、それから既に十三年が経とうとしております。
合掌。
寺西諄信さんは長らく中学校の先生をなさり、現在はボランティア活動や四国八十八ヵ所の巡礼をされている。僕は昨年(二〇〇七年十一月)京都でお目にかかった。それ以前も二度お目にかかる機会が有った。何時もお忙しいようで、詳しいお話を未だに訊くことが出来ないないのが残念だ。
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