よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

求道学舎と後藤清一

求道学舎開設の意図は

後藤清一が毎週通って法話を聴いた,求道会館。
創立者の近角常観は滋賀県の貧しい寺の出身で苦労して学問をしてきた人だった。
本山の給費生として中学から、一高、さらに東京帝大にいたるまで、学生寮で暮らした。
京都の大谷中学ででは舎監に選ばれ、一高でも寮長だった。
求道學舎発足に当たり「自分は一生舎監で終わるのだ」と常々もらしていたそうだ。
舍生と読んでいた若い学生たちと起居を共にし、食卓を囲み、「朝の歎異抄(たんにしょう)の輪読、晩の正信偈(しょうしんげ)の読書
、こういう風な生活が何よりすきだった。」といわれる。

さらに、二年間の海外留学生活。アメリカでは教会が地域社会における活動拠点として使用されていること。

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ヴィッテンブルグのマルチン・ルターハウス

1年間滞在したドイツではマルチン・ルターの跡を訪ねヴィッテンブルグの修道院を直した寮に感動している。
教会の内外を問わず社会を根本的に改善する、宗教的社会事業に注目している。
イギリスのオックスフォードを訪ね、「日本人は仏教に新しい光を与えねば」との助言を受けた。

僕もこのような共同生活に一時的に憧れた。多くの人たちと起居を共にし一定の目的の下に働き学ぶ。
特に、京都近辺に多く、大正から昭和にかけて多くの団体が出来て活動した。
現代において共同生活は不自由のデメリットが強く感じられ、利点が評価されていない感じはする。
青少年の教育機関においての寮生活は再度検討されても良いと思うが、良き舎監の存在が重要だ。

「一人一人の自覚の上に築かれた信仰が社会の基礎を作るという信念に従い、求道学舎で信仰生活と教育活動、求道会館で宗教活動をおこなう。」という生活を、実践していく。


学舎の生活について、初期の舍生であった哲学者・法政大学総長であった谷川徹三(1895-1989)は

「自伝抄」で「…時々その説教を聴いたりその書を読んでいた近角常観を通して、親鸞がわたしの前に姿をあらわしてきたのである。私は生活を一新するために、その近角先生の求道学舎に入れてもらった。……求道学舎の生活は朝夕仏前で正信偈と阿弥陀経をあげる勤行以外には他とかわらなかった。その勤行も強制的なものではなく日曜日の先生の説教も聴こうと思わなければ聴かないでもよかった。私は『歎異抄』をくりかえして読む他にはとりたてて教義の勉強もしなかった。しかし、粗末ながら一人の室だし、室の白壁にだれが描いたのか、法隆寺の壁画を模した西方浄土の阿弥陀仏が大きく墨で描かれていたのが、妙に私の心を落ちつかせた。私の信仰はいっこう進まななかったけれど、私は室でも学校の図書館でも良く本が読めた』。と記している。
『自伝抄』は中公文庫、1992年。

後藤清一は舍生ではなかったので、日曜講話を聴きに行った。
舍生でない人が日曜講話以外の日に学舎を訪ねる来ることも多かったようで、後藤もそうだったかもしれない。
その頃の青年たちは、宗教的関心が強かった時代で、日本の思想界が一般的に内省的になりつつあった。
後藤も個人的な悩みを抱えつつ時代の子でもあった。

*近角常観・求道學舎・会館に関しての多くを『求道学舎再生』近角櫻子著 学芸出版(2008年4月)に依っている。
  1. 2009/05/30(土) 10:28:32|
  2. 後藤清一
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『水戸のー 空・風・人』吉田秀和著

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1990年3月21日、水戸芸術館がオープンした。
地方公共団体の運営する文化施設が多くの問題を抱え運営が行き詰まっている中、水戸芸術館は20年近く常に進化しながら運営されている。
年々予算が減額されるご時世で、基本方針を貫くのは容易ではない。

開館以来館長を務めている吉田秀和さん(1913年生まれ)は音楽評論家として初の文化勲章を授章し、吉田秀和全集も刊行されている。
評論や随筆は音楽のみならず美術や文学まで幅広い。
日本橋生まれの江戸っ子で、大の相撲好きだが、ドイツ語とフランス語も堪能な国際人。
斎藤秀雄らと現在の桐朋学園の創設にもかかわった教育人でもある。


水戸芸術館での挨拶文、新聞や雑誌に掲載された文章などが纏められて出版された。
『水戸のー 空・風・人』吉田秀和著
編集発行は水戸芸術振興財団。

1 水戸芸術館オープン
2 準備から開館まで
3 実践活動あれこれ
4 吉田館長が語る
5 あいさつ
の五項目に分けられている。
何処から読み始めても良いが最初から読むのが理解しやすい。
なるほど、その通り。と思った言葉を抜き書きして紹介する。

* 開館式典式辞、から。1990年3月21日
『芸術というものは、今生きているところから、将来に向かって展望して、これから何をつくることができるだろうか、また、ぼくたちの人生、しゃかいというものがこのさきどうなってゆくだろうか、ということを予感したり、あるいは予告するような仕事をする側面をもっている。この芸術館では、多分そちらの面を美術が受け持つ』

『古いものを使いながら、それを自分の創造物に転換してゆくという、芸術にとって基本的な働きを示す仕事にほかならない。いや、これこそ芸術の本体だといってもよろしい。それを鈴木さんは芸術館の演劇部門でもやってゆくわけです。』

『芸術館は水戸市制百周年記念事業の一環として構想されたそうです。百年といえば、日本で、いわゆる洋楽を容れてからもほぼ百年あまり。ちょうどみとが市になったのと同じ頃、日本でもドレミファでもっておんがくをやり、演奏したり、作曲したりする仕事が始まりました。百年間やってきて、どんないみがあっただろうか。そういうことを検討することに、芸術館音楽部門が役立つよう運営できまいか。その仕事の一つとして、ぼくは、日本で育ち、それから、外国へ行って音楽家としてすぐれた活躍をしている人たちを呼び集め、一団となって演奏してもらったらどうかということを考えました。
 ぼくの理想・夢は、ああ、日本人にも、こんなすばらしい音が鳴らせるのかって、皆さん方がびっくりしたり、感激するような音楽をここで、本当に鳴らしてみたいってことです。出てみるまでは、どんな音になるか知りません。もしも、かって日本で鳴ったことのないような音がここで鳴り、日本人が日本の中にじっとこもってしまうのでなく、世界に向かって手をひろげて歩いてきた結果が、百年経ったらこうなったんだ、ということになったら、どんなにいいでしょう!それは単に日本が小沢征爾さんという一人の名指揮者を生み出したとかいう以上の意味を持っているのではないか。それから、ぼくはまた、室内楽のエッセンスといっていいような弦楽の四重奏団を作ろうと思います。それから、現のほかの楽器、ピアノや管楽器などが入った室内合奏団』

『こうして、美術がいわば前衛となって、実験的な仕事を受け持ち、演劇が中央の本体といったかたちをとり、音楽がそのあとをゆく。そういう三位一体となるでしょう。』
『以上はここでは、こういうものを皆さま方に提供するという予告ですが、芸術の仕事の意味は。それだけじゃ終わらないんです。皆さんがここに来てくださって、それをみたりきいたりする。あるいは、笑ったり怒ったりして、あれは何をやっているんだ、ガラクタばかりじゃないかって腹を立てたり、逆に、ああ面白かったとおもってくださったり。こんなふうにして作品と、問答をしたり、批判したり、共感したり、感激したり、そういうことがあってはじめて、芸術というものは一つの実りをむすぶことになるのです。』

式辞の何十分の一を引き写すだけでも、そうなんだ。と納得するばかりだ。
第5項まで引き写したのでは時間とページが足りないので、この式辞だけにしておきたい。

吉田秀和館長のあいさつをを何度か聞いた。
一言ずつが無駄がなく的確で、分りやすい。
辛辣でありながら優しさがあるから、嫌みに感じられない。
話しが、そして文章が音楽のような響きがある。
江戸っ子らしい洒落の精神が身に付いている。
人間年齢が全て、とはいえないが今年で満96歳だが頭脳にいささかの衰えもない。
僕がかって見聞きした方で、吉田秀和さん以上に心身が健全な方を知らない。
まさに、生き方の達人だ。

この本の「あとがき」に代える形で水戸芸術振興財団副理事長の吉田光男さんが「水戸の吉田秀和さん》という文を寄せている。その一部に、
『真の批評家は、一国一時代の趣味を決定する、そうおもっている。小林秀雄がいたので、皆がランボーやゴッホに興味を持ったように、日本の音楽ファンで吉田秀和さんの言説に教えられなかった人などひとりもいない、音楽だけでなく、文化や思想の多くの面で、日本人の価値決定に大きな影響を与えられた。どれが良いか、どれが美しいか、どんなふうに感動するのか。曰く言い難い思いが、吉田さんによって言説化されたことで、多くの人は判断基準を持つ。そしてあたらしい価値がうまれる。』と述べている。

佐川一信元水戸市長は生前に『芸術館のことは(運営は)両吉田さんにお任せしてあるから何も心配していない』と言っていた。
佐川さんが、三顧の礼を尽くし水戸芸術館館長として吉田秀和さんを迎えたのは水戸市民の誇りだ。

水戸に過ぎたるものは《吉田秀和さんと水戸芸術館》と思う。
僕の周りのブログ仲間も皆さんも吉田秀和さんのファンだ。
最近もいくつかの書き込みを頂いている。
嬉しいことである。
本物の人間は知れば知る程興味が深くなる。
この本や吉田秀和さんに関するコメントを募集します。
以前書いて頂いた方も、改めてお願いしたいと思います。

*芸術館のミュージアムショップで販売中。
お値段は¥1000だが数量に限度あり、お早めにどうぞ。




  1. 2009/05/29(金) 13:42:39|
  2. 水戸芸術館
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十字花・十薬草・ドクダミ

十字花・十薬草・ドクダミ

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この写真は北区王子の路傍で写しましたが、我が家の庭の片隅にも咲きます。
西の谷にも咲いていますが、数は少ないようです。西の谷は間もなくあじさいの季節となります。
土地が痩せているので、あじさいの花は小さめ、もっと沢山咲くようになれば良いのですが。

十字花・十薬草・ドクダミ、呼び名は違っても種類は同じ可憐な白い花。
今の季節で僕の大好きな花だ。   
摘んで玄関に挿したりするが、多少匂いが気になる。
それを除けば、見て良し、描いて良し、飲んで良しの優れた草花。
生の葉を摘み煮だして飲むが、意外に爽やかな味がする。


資料を添付します。
興味のある方はお試しあれ。

開花期の地上部を乾燥させたものは特有の臭気はほとんど無い。これは十薬(じゅうやく、重薬とも書く)という生薬名で、日本薬局方にも収録されている。十薬の煎液には利尿作用、動脈硬化の予防作用などがある。
また、湿疹、かぶれなどには、生葉をすり潰したものを貼り付けるとよい。

*薬理成分
デカノイルアセトアルデヒド
生のドクダミに特有の臭気成分。抗菌作用があるが乾燥させると酸化されて抗菌効果は失われる。
ラウリールアルデヒト
デカノイルアセトアルデヒドと同様にドクダミ特有の臭気成分で、抗菌作用がある。
クエルシトリン
利尿作用、動脈硬化の予防作用
カリウム塩
利尿作用

*漢方方剤
漢方では解毒剤として用いられ、魚腥草桔梗湯(ぎょせいそうききょうとう)、五物解毒散(ごもつげどくさん)などに処方される。しかし、ドクダミ(魚腥草、十薬)は単独で用いることが多く、漢方方剤として他の生薬とともに用いることはあまりない。

*食用
ベトナム料理ではザウザプカー(rau giấp cá)またはザウジエプカー(rau diếp cá)と称し、主要な香草として重視されている。ただし、日本に自生している個体群ほど香りはきつくないとも言われている。

また、中国西南部では「折耳根(ジョーアルゲン zhéěrgēn)」と称し、四川省や雲南省では主に葉や茎を、貴州省では主に根を野菜として用いる。根は少し水で晒して、トウガラシなどで辛い味付けの和え物にする。

加熱することで香りが和らぐことから、日本でも山菜の1つとして天ぷらなどにして賞味することがある。

多くの効能がありながら、あまり利用されていないようだ。
背が高くなる訳でなし、摘んでも摘んでも、地下茎を伝っての繁殖力は強い。
他の雑草を生やさない効能もある。利用方法によっては十役以上の効能を期待出来る。
  1. 2009/05/28(木) 17:16:24|
  2. 山野草
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彫刻団体「構造社」と後藤清一

「構造社」と後藤清一  伊豆井 秀一 

 近年、多くの美術館が各地に設立され、その殆どが〈近代〉という名を冠せらている。そのゆえか、日本の近代美術の研究は従来の調査の上に、新しい資料の発見、それに新しい視点からの解釈などが次々になされ、従来の捉え方を変えなければならないものもあり、興味深い。
 さて、日本の〈近代〉美術であるが、美術という枠組みが西洋の制度の借用から始まっているのは周知の事実であり、〈近代〉の美術が、本来、個性の発現の行為の結果であることを考えるなら、こうした外圧的な枠組みに対してこれから脱するべく自立的、内省的な個性が生まれ、そこから表現が主体的なものとして熟成されるまでには時が必要であることは論をまたないであろう。
 日本の近代彫刻の基が明治政府の意向を体し、工部省のもとに設立された工部美術学校であったことはよく知られている。
 その設立の意図は「…其ノ学科ハ画学、彫刻ノ二科トシ、画学ハ画法及ビ油絵ヲ教エ彫刻学ハ石膏ヲ以テ各種ノ物形ヲ模造スルノ術ヲ教ユ.…」(『旧工部大学資料』)であり、イタリアからV・ラグーザが招聘され、西洋彫刻の移植がはじまるが、一般の彫刻に対する関心はうすく学生の授業料は免除されていたほどである。
 ところで、この「物形ヲ模造スル」という言葉はその表現の迫真性もあり、その後の彫刻界に深く根を下ろすことになるのである。
 文部省は明治40年に、別々に徐々に成長してきた明治の伝統の木彫と塑像の両者に全国的な規模で共通の発表の場を与えて文展を開設し、彫刻が絵画と並んで造形芸術の一分野としての地位を確立させた後も皮相な形態の模倣による傾向は存続していく。
 こうした中で、明治の末に荻原守衛がロダンの作風を伝え彫刻とは何かという問題をつきつめ、ロダンに傾倒した高村光太郎と共に、其の考えを彫刻界に新しい息吹きとして伝えたのである。ただ、こうした動きは続く大正期の彫刻界においても圧倒的な自然主義的な形態描写の官展系の流れにあってはあくまで傍流的な動きであり、日本美術院に設けられた彫刻部、あるいは二科の彫刻部などのどちらかといえば在野の彫刻界の中で脈をうち。近代の咀嚼と展開がはかられていたのである。
 以上のように、当時の彫刻界は絵画主体の団体に従属していたのであるが、こうした状況下で「構造社」が生まれる。彫刻だけを我が国初めての美術団体の誕生である。
 「大正15年。9月25日、立体芸術の研究発表を目的として、斉藤素巌、日名子実三両人をもって発会。事務所を斉藤方に置く。」と沿革は簡単であるが中心になった斉藤素巌はこのグループの成立について次のように述べている。
 「…わたしがいつも云う事だが、芸術の分野は広い。にも拘らず、日本に於ける彫刻芸術の分野は余りに幅がせま過ぎる。女が裸で腰掛けているだけが彫刻ではあるまい。1年生の講釈のようになるが、群像だって彫刻だ。レリーフだって彫刻だ。衣服を着たって彫刻だ。銅像だって、メダルだって、記念碑だって、首だって、トルソだって、石彫だって、甘くたって、辛くたって何だって彫刻だ.色んなものがあるので人生を楽しめるんだし、展覧会も変化が出来て面白いのだ。……」
 また、
 「造形芸術を応用してその使途を実社会に展開をすることを、いわゆる彫刻の社会化を図ることを、俗的であると考察するのは、余りに色盲的な考え方である.彫刻は社会の要求に融合する公共事業芸術のブランチである。ここに鑑みる所あって立ちたる構造社のスローガンは『彫刻の実際化』である。そは使命の一つでもある。…この意気を鋳造方面まで進めて…建築上への実際化を開拓しようとしつつある。」
 とも述べ、「物形ヲ模造スル」という従来の彫刻に対する意識とはかなり差異があることを示している。
 こうした背景には当時の都市化の歩みがある。大正8年の都市計画法並びに市街地建築法の公布、翌大正9年の都市計画法の施行というように次第に都市の建設が本格化していく。こうした動きに呼応し、建築界も変容を遂げていく。若手の建築家たちの集まりである《分離派建築会》もドイツやオーストリアに興った世紀末の絵画や彫刻、工芸などの各芸術ジャンルが建築に総合されていくという総合的な芸術運動《分離派》からの理念を標榜し、結成されている。美術界も当然、影響を受けざるを得ない。先に述べたように、「構造社」は彫刻と建築の融合を目指していたが、建築及び彫刻家として活躍していた〈イワン・メストロヴィッチ〉というユーゴの作家に注目していた。

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「柱頭試作」昭和7年(1932)

 「構造社」の第3回、4回における総合試作、さらに柱頭試作などはこうした建築も視野に入れた試みであり、その果敢な姿勢がうかがえ、美術界はジャーナリズムをはじめ、かなりの歓迎を示すのである。彫刻を単体の「物」から空間との「関係」に着目するという新たな視点を提示しようとしたわjけである。こうした意識の変革には、身体は知覚や行動を通じ、空間に対して新たな間隔を習得するという社会心理的背景があり、それに伴う彫刻に対する認識の変化がうかがえる。
 若い頃の煩悶の時代を経た後藤清一が、創立会員である東京美術学校の同期であった清水三重三の誘いを受けて「構造社」に出品するようになるのは第二回からであった。結婚し浦和に住むようになり、第三回に出品した「少女の顔」では構造賞を受賞している。なおこの作品は倉田百三の眼にとまり、当時としては破格の二百五十円で購入されたエピソードを残している。その後も戦前は「構造社」に出品を続け、この会の代表的作家となる。

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「少女の顔」昭和4年(1929)第3回構造社展。

 〈イワン・メストロヴィッチ〉に魅かれ、モチーフなどからはヒントを得つつも建築との対応として総合試作に積極的にかかわった跡は柱頭試作くらいでさほど強くなく、「母と子」の慈愛あふれる像や飛鳥・白鳳時代の古仏からヒントを得た、東洋的感性にもとずく様式された対象の独自の温雅な作風を追求していたように思える。
既に自分の採るべき方向は定まっていたというべきかもしれない。あるいは自らの作品を設置する空間は近代化による無機質なヨーロッパ的なものではなく、日本の寺院にみられる厨子のような親密なものを想定していたのかもしれない。
 夏のある日、あるじの居ないアトリエを訪ね。ふとそう思った。


*この文章は冊子『雑艸』創刊2号(1996年9月5日発行)から転載。筆者の伊豆井 秀一さんは当時、埼玉近代美術館企画課長。美術史家で『構造社』会員の陽咸二を研究している。1995年頃、後藤清一亡き後のアトリエを訪ねた。その際の構造社と後藤清一の印象記。

注は、理解を深めてもらえればと、高橋が加えた。

注1 「分離派建築会」の結成
分離派は大正9年に結成された日本初の建築デザイン運動グループの名称。「分離派建築会」という名称の由来は、過去の建築様式から分離し新たな建築づくりをめざそうとしたところから名付けられた。
当時、卒業を間近に控えた東京帝国大学建築学科の学生有志数人で結成し、各自が計画案や実作の写真などを持ち寄り展覧会を行なうかたちで活
動した。活動は昭和初期まで続けられた。メンバーは当初堀口捨己,山田守,石本喜久治,森田慶一、瀧澤眞弓、矢田茂ら同期生が中心で、後に蔵田周忠(当時濱岡周忠)と山口文象(当時岡村蚊象),大内秀一郎が加わる。
彼等は分離派終息後もそれぞれ建築の各分野で活躍し独自の道を切り拓いた。しかし、実際のところ当時の日本は先進ドイツの動向に眼差しが注がれ、とりわけドイツ表現主義建築の影響が濃厚だった。分離派=日本の表現主義建築という見方から逃れられない。

注2 2005年宇都宮美術館で「構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち」展が開催された。札幌、松戸などでも巡回展示されたが、この展覧会を観て構造社がどのような彫刻団体か良く理解出来た。
彫刻専門の団体として発足したが、絵画。絵本や綜合試作(大型の建造物を設計し、そこに各々の彫刻作品を配置する表現方法)、モニュメントやメダルやレリーフなどの製作をする人など多様性のある集団だ。当時は意匠、現在のデザインの分野の人達も参加している。

注3 因みに、日本サッカー協会が使用している日本代表のマーク「八咫烏( やたがらす・三本足のカラス )」の図案デザインや日本水泳連盟のシンボルマーク、全国高校野球の優勝メダルは構造社会員の日名子実三がデザインしたもので現在も使用されている。
  1. 2009/05/27(水) 11:06:20|
  2. 後藤清一
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水戸室内楽管弦楽団

水戸室内管弦楽団と巡る『ヨーロッパ音楽紀行』
     水戸芸術館音楽部門編 音楽之友社 2009年3月


市制100年を記念して開設された水戸芸術館が来年で20年を迎える。
音楽・美術・演劇の3部門を狭い敷地に併存させ、しかも、貸し会場にはしない。
という基本方針を守りながら見事に存続したものだと思う。奇跡ともいえる。
これは吉田秀和館長初め館のスタッフや行政サイドの運営のかじとり。
運営方針を理解し自分達の芸術館との認識が深まった水戸市民。
内容の素晴らしさに賛同してくれている企業の賛助金。
多くの人達の気持ちが繋がったからこそ出来たこと。

もし、という話しは、話しにならない。
しかし、もし芸術館が生まれていなかった水戸の街は?
と考えたら、ぞっとする。
今以上に寂れた街になってしまっていただろう。
関係する方々の努力に感謝したい。


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今回出版された、水戸室内管弦楽団と巡る『ヨーロッパ音楽紀行』水戸芸術館音楽部門編 音楽之友社刊は
クラッシック門外漢の僕にも楽しめる内容だ。この本はクラキチさんから贈呈された。

水戸室内管弦楽団(以下MCO)は2008年5月31日から6月14日まで、ほぼ2週間のヨーロッパ公演を実施した。
MCOは1998年と2001年にもヨーロッパ公演を行い、その模様はそれぞれ書籍にまとめられている。

今回の公演は小澤征爾音楽顧問の指揮のもと、ミュンヘン、ウイーン、フィレンツエ、マドリード、パリという順で5都市を巡るツアーを予定していた。しかし、直前に小澤音楽顧問が腰椎椎間板ヘルニアのため指揮出来ないというアクシデントが起きた。
指揮者なし.という形で演奏旅行を行わざるを得なくなった。
この本は、この不測の事態をどう乗り越えたかのドラマテックな記録。

その意義を吉田秀和館長が関根哲也、中村晃楽部門の学芸員の質問に答えるところから始まる。
更に、「現地在住の日本人に聞く』というページでは、ウイーンで出会った水戸出身の羽部真紀子さん(24歳)へのインタヴュー。
羽部さんは水戸一高から東京芸術大学の指揮科を卒業後、2006年ウイーン音楽大学指揮科に留学した。女性の指揮者は未だ少ない。その険しい道を選んだのは水戸芸術館でのMOCの定期演奏会で小沢征爾指揮による演奏を聴いたことがきっかけだった。「小澤先生を身近に見ていたこと。それがなかったら指揮者になりたいとは思わなかったろう」とかたっている。
芸術館が次の世代に繋げる役割を果たしている。

訪問各都市の『街と音楽』について矢澤孝樹学芸員が記している。
『街と音楽』について出発前の2008年1月から4回にわたり水戸国際交流会館で講演会が開かれた。
その際、僕も受講したが、かなり詳しい説明であった。
本書からは、ガイドブックのように街の雰囲気が伝わって来る。
行ったことの有る街も、無い街もとても親しく感じられるように書いてある。

水戸芸術館の特色として、各部門の学芸員が芸術館内のみでなく館外の活動にも力を入れているので市民との接触が多い。
この様なことは、とても稀な例での都市の学芸員ではあり得ないのでは、と思う。
全ての活動は学芸員に始まる。
幸い水戸芸術館は優秀な学芸員に恵まれてきた。
勿論、専門職だからキャリアを積んで他の同様施設や教授なども転向する。
水戸芸術館に在籍した学芸員が全国で活躍しているのは、嬉しいことだ。
音楽好きでなくとも楽しめるこの一冊、是非お薦めしたい。
  1. 2009/05/25(月) 22:58:04|
  2. 水戸芸術館
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たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
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の気持ちを大切にしたいと思います。

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