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よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

阿修羅像を始め八部衆などの脱活乾漆の技法

阿修羅展に再度足を運んだのは、阿修羅像を始め八部衆などの脱活乾漆の技法を確かめてみたいと思ったから。

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後藤さんは『玉』(昭和19年・1944)という作品を含め、数点の脱活乾漆による作品を制作している。
第二次世界大戦の最中は軍需品以外の金属使用は出来なかった。
という事情も考えられる。
以下に記すように、脱活乾漆造の技法は奈良時代からあった。
阿修羅展では十大弟子や八部衆がその技法による。
見た感じより軽量なので、度重なる災害をくぐり抜け現存している。

脱活乾漆造 の制作方法

まず、木製の芯木で像の骨組みをつくり、その上に粘土(塑土)を盛り上げて像の概形をつくる。この上に麻布を麦漆で貼り重ねて像の形をつくる。麦漆とは漆に麦粉(メリケン粉のようなもの)を混ぜてペースト状にしたもので、接着力が強い。麻布の大きさ、貼り重ねる厚さなどは像によって異なるが、おおむね1センチほどの厚さにする。こうしてできた張り子の像の上に抹香漆(まっこううるし)または木屑漆(こくそうるし)を盛り上げて細部を形づくる。抹香漆とは、麦漆にスギ、マツなどの葉の粉末を混ぜたものであり、木屑漆とは麦漆におがくず(ヒノキ材をのこぎりで曳いた際のくず)や紡績くずなどを混ぜたものである。奈良時代には抹香漆、平安時代以降は木屑漆が主に使われた。

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今回の展覧会、五部浄の一部が構造を見ることが出来る。おおむね1センチの厚さだ。
後藤さんの「玉」は小さく厚みも薄そうだ。

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阿修羅像の魅力は、三面六臂という特別な姿形によることが多いと思う。
今回、少し離れて良く見ると、合掌している以外の手の形が何かしっくり来ない感じがした。
制作時から、現在の姿なのか?特に一番後ろの上に揚げた手が何故か不自然に感じた。
勿論、三面六臂と言う姿そのものからして不自然んではあるが。

どちらにしても、仏様。あれこれ言う話しではない。
素直に、手を合わせるのが肝心だろう。
  1. 2009/05/24(日) 21:43:06|
  2. 後藤清一
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ロダンの影響

東京国立博物館での阿修羅展、既に入場者が50万人を突破したとのことだ。
何処の美術館も何とか入場者を増やしたいと、努力している。
今回の様なことは、滅多に無いことだろう。

僕は、開会されて間もなくの土曜日の6時頃入館したのでゆっくりと観られた。
その後は1時間待ちがあたりまえのようだ。
会期も残り少ないのでもう一度拝見しようと、土曜日の4時頃上野に行った。
西洋美術館の「ルーブル展」も50分待ちとの表示。
これでは「阿修羅展」も同様だろうと西洋美術館の庭のロダンの作品を観てからにした。

つい最近NHKのテレビ番組、プレミアム8<文化・芸術>シリーズ巨匠たちの肖像「ロダン あくなき生命への欲望」をたまたま観た。
「近代彫刻の父」と呼ばれたオーギュスト・ロダン(1840-1910)。
ロダンの優秀な弟子にして愛人だった、カミーユ・クローデルとの出会いと葛藤。
代表作「地獄の門」や「カレーの市民」などの最新研究から浮き彫りにされた人間像は今まで知らなかったことが多かった。

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テレビ番組を観た上で改めて観る「地獄の門」や「カレーの市民」は今までと観方が変わった。
単に、聞く観るでなくその中にあるいろいろな物事を知った上で、見聞きすることは大きな違いが有る。

後藤清一さんが東京美術学校在学時代はロダンが大流行した。
明治時代末期から大正時代にかけてロダンが紹介された頃は、彫刻の世界のみならず絵画や文学の世界にまで大きな影響を与えた。
日本に紹介したのは荻原守衛(1879-1910)である。
萩原は洋画の修行にフランスに渡り、1904年のサロンに出品されたロダンの『考える人》を観て感動し彫刻に転向した。
帰国して2年後の明治43年、31歳の若さで急死した。僅か4年間の彫刻制作であったが、ロダンに触発された生命感あふれる新鮮な造型は、同時代の美術家に大きな影響を与えた。
高村光太郎も『ロダンの言葉』などを翻訳・刊行してロダンの魅力を啓蒙した。
文芸雑誌『白樺』(明治43年創刊)は文学誌であると同時に美術誌で、毎号西洋美術の写真版を挿入していた。
武者小路実篤、梅原龍三郎、志賀直哉を初め多くの美術家・文学者がロダンの紹介に務めた。

この時代に彫刻を学んだ後藤も当然のようにロダンの作品から影響を受けた。

 ロダンの彫刻は、物の外装を破って、その実相に深く喰い入っている。真の知識人が、その知識に、おぼれずして、しかも、その知識に、万全に生ききつておることに、よく似ている。これは何か永遠につながりをもつ、大きな力にちょるもの、働きであるのか?『隠者の方影』より
  1. 2009/05/24(日) 17:45:17|
  2. 後藤清一
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ヴェートーヴェンと後藤清一

彫刻家・後藤清一さんの作品が縁でおつきあいが始まったUさんはクラッシック音楽の愛好家。
さらに陶芸家の岡部嶺男、小説家の遠藤周作のファンでもある様です。
先日2度程訪問し、お話しを伺いました。
拙著の出版記念会で、後藤清一さんがベートーヴェンがお好だったので、弦楽四重奏を演奏してもらった。
と話しました。
それに答えてUさんは『ベートーヴェンが初めて、作品を芸術と認識した作家です。自作の曲に作品番号を付けたのも彼が初めてです。』更に「殆どの芸術家や哲学者はベートーヴェンの曲を愛してます」
という様なは話しをお聞きしたが、門外漢の僕には理解出来ないところもあり、間違いもあるので戴いたメールを転載します。

ベートーヴェンと後藤清一
人類史上最高の芸術家はベートーヴェンとミケランジェロと言われています。
ベートーヴェンには多くの傑作がありますが、音楽史上最高の芸術作品と呼ばれているのが弦楽四重奏曲です。
特に最晩年の6曲が究極の芸術作品と高く評価されています。
ベートーヴェンが作曲した時には、あまりにも斬新な音楽だったため、音楽界からは大不評でした。
それからかなりの時代を経て、弦楽が高く評価されるようになりました。特に哲学者からの評価が高いのが特徴です。

後期弦楽四重奏曲は下記のとおりです。

・弦楽四重奏曲第12番変ホ長調 作品127
・弦楽四重奏曲第13番変ロ長調 作品130
・大フーガ変ロ長調 作品133【13番の最終楽章を独立させた】
・弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調 作品131
・弦楽四重奏曲第15番イ短調 作品132
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135
どれも甲乙つけられない名曲です。

哲学者の谷川哲三氏は「晩年の弦楽四重奏曲は哲学や宗教の古典を読んでいる時と同じ感銘と充実感を与えてくれる。」
哲学者ベルクソンは「彼は、後期の四重奏曲などの、あの崇高な純朴さに到達する。それは芸術の奇跡である。多くの芸術家はそのことを少しも考えていない。彼は最も確固たる神の使者の一人、彼は案内役である。」

弦楽四重奏曲の影響を受け、自らの作品に魂を込めた芸術家は、陶芸家の岡部嶺男です。
岡部は弦楽15番イ短調を毎日聴いて、構想を練ったり精神を鼓舞したりしました。
岡部は家族に「ベートーヴェンのようになりたい」といって作陶に励んだそうです。
昨年、岡部作品に出会ったのですが、まさにベートーヴェンの復活で感銘いたしました。

高橋様からの話では、後藤先生は大フーガ133番を好んで聴いたそうです。
後藤先生もベートーヴェンから多くのものを得たことが推測されます。
後藤先生がベートーヴェンについてどう仰っていたか、知りたいものです。

このブログでの後藤先生の言葉「宗教に芽生えを置かない芸術は神のものかもしれない。されど人間の芸術とはいひがたい」。
遠藤周作の言葉「人間がこんなに苦しんでいるのに 主よ 海はあまりにも碧いのです。」
そして岡部の言葉、「愛のないものは芸術作品ではない」
この3者、それぞれ道は違いますが、「人間の芸術」を求め、常人では出来ない苦闘を乗り越えて、成就された方々であると思うのです。
共通するのは「母の慈悲」だと思います。

後藤先生は人間の芸術の先達者、ヴェートーヴェンに敬愛の念を抱いたのではないでしょうか。」
後藤作品の写真を観ていると「人間の芸術」を感じます。本物を見たい、先生のメッセージを受け止めてみたい・・と願う私です。
このような素晴らしい先生の作品が多くの人に出会って欲しいと思います。

*上記が頂いた文章だ.ベートーベンの肖像彫刻としてブールデルの作品が有名で、ヴェートーベン像を40数体制作した。

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後藤清一作『口を歪めた男』(第4回構造社展、昭和5年/1930)
上記の他に『土くれ』(昭和26年/1951、第4回日本アンデパンダン展)など苦悩する顔の作品があり、ブールデルの影響を受けたかは分らないが、ヴェートーベン像に共通する要素を感じる。

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アントワーヌ・ブールデル作、ヴェートーベン像。

*アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)はロダンのアシスタントをやっていたこともあるフランスの彫刻家。
ジャコメッティやマイヨールなどの後の有名彫刻家たちもブルーデルに学んだ。
1861年10月30日にフランスで生まれ、トゥルーズの美術学校に入学し、その後パリの国立美術学校にて学ぶ。
しかし、この美術学校の教育に満足がいかずに美術学校を中退する。その後、ロダンに出会う。
ロダンはブールデルの作品をみてその才能を高く評価した。そして約15年間ものあいだブールデルはロダンのアシスタントをつとめた。
そのせいもあってブールデルの作品にはロダンに影響を受けたものが多いと言われる。
ブールデルは生涯の制作として「ベートーベン像」を40数点残した。

  1. 2009/05/23(土) 18:34:06|
  2. 後藤清一
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散歩の途中で

東京下町は道路の両端に花が多いと思う。
庭の広さが限定されているので、道路が庭の代わり。
とも言えようが、自然を愛する気持ちや近隣を美しくする公共心が根付いているのだろう。
多くの花が咲いているが、今日は数点写真に撮った。
花の名前は正確では無いが、調べる楽しみもある。

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ムラサキツユクサ。
子供路頃からよくみかけた、ツユクサより大きいが、どちらの液を搾って色染めの遊びに使った。

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ビオウヤナギ。
我が家の狭いにをにも有ったがいつの間にか消滅した。
黄色が凄く綺麗なのと花芯の繊細な線が美しい。

ウツギ(卯木)。
卯木は沢山の種類が有る。また卯の花とも呼ばれる。
1.ゆきのした科うつぎ属
  卯木(うつぎ)
  姫卯木
2.すいかずら科たにうつぎ属
  谷卯木
  箱根卯木
  藪卯木
3.すいかずら科つくばねうつぎ属
  衝羽根卯木
4.みつばうつぎ科みつばうつぎ属
  三葉卯木
西の谷にも谷卯木があり、今が盛りの頃だ。
3~5メートル卯木で、小さな白い花をいっぱいに咲かせるのも見受けるが姫卯木?
ツクバネ卯木は羽根つきの羽根に似ているので、ツクバネウツギと呼ぶが、品の良い花だ。

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この卯木は紅白2色卯木?

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ヤマボウシ。
今が盛りのヤマボウシ。北米原産のハナミズキに似ている。
ハナミズキは街路樹に多いが、ヤマボウシモ街路樹としても植えられていた。
  1. 2009/05/23(土) 12:32:12|
  2. 歳時記
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宗教家・近角常観(ちかずみじょうかん)

彫刻家・後藤清一が人生問題で悩み、解決の道を探した真宗会堂(水戸市竹隈町・現東台1丁目)。
浄土真宗の僧侶・寺西恵然が主宰していた会堂だ。
どういう経過か聞き漏らしたが、東京本郷森川町(現・文京区本郷6-20-5)に在った求道会館にも通う様になった。
求道会館を運営していたのは、宗教家・近角常観(ちかずみじょうかん)。

近角常観とはいかなる人物あったのか?
求道会館のホームページによる略歴は、次のようだ。

 明治3年滋賀県に生まれた浄土真宗大谷派の僧侶で、親鸞聖人の信仰を伝える歎異抄を原点に据え、悩み煩悶する人間が絶対他力によって救済されることを自らの入信体験を基に繰返し説き、仏教界のみならず幅広く同時代の知識人に大きな影響を与えた。
 近角は若き日の欧州留学の体験をふまえ、青年学生と起居を共にして自らの信仰体験を語り継ぐ場として求道学舎を本郷の地に開き、明治35(1902)年から昭和16(1941)年に没するまでその経営に心血を注いだ。
 また、広く公衆に向けて信仰を説く場として、大正 4(1915)年に求道会館を建立。
 その壇上から有縁のものへ語りかけると共に、広く社会に対して仏教の有るべき姿を訴えた。その主張は政教分離の立場から国家による宗教管理とともに教団の政治参画にも強く反対し、宗教界の自立性の喪失に警鐘を鳴らし近代仏教の確立に大きく貢献した。




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求道会館にて、中央・近角常観、右・後藤清一、左・森戸達雄 (大正10年代)

1990年『後藤清一 ひとつの象徴の造型』を書いた時の僕の認識は、求道學舎と求道会館の2つは同一と思っていた。
学舎は学生寮で、会館は浄土真宗の教会であったのだ。
当初は学生寮として始まったが、規模が拡大して求道學舎と求道会館に分けたのだ。
その辺のことが分らなかった。

洋行帰り32歳の青年だった、近角常観が開いた求道學舎は木造2階建の、もと憲兵の屯所。
十数人の学生を寄宿させ、信仰を中心に据えた共同生活を始めた。
この様な学生寮の共同生活の効果は、外遊した体験オックスフォード或はドイツのルターハウスなどによるのでは、といわれている。
旧制の高等学校などの寮生活の楽しさと、有意義さはよく聞くことだ。
現在の教育の欠陥を、寮制度が解決出来ることがある、と僕は思っている。

ともかく、1階を書斎と居間、食堂として使用し、学生はそれ以外の部屋に住んだ。
日曜日は食堂ともう一間をぶち抜いた部屋で近隣や外部の人を対象に日曜講話が開かれた。
次第に多くなった聴衆は座敷に入りきらず廊下や縁側に腰をおろして聴聞するようになる。
人がはみ出る状況になったため、常観は付属施設として会堂を建てようとした。

求道会館設立
資金などの難問を乗り越え、武田五一の設計による会堂が落成したのは大正4(1915)年。
その会堂に後藤さんは通った。
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当時の日曜法話の会場風景、

多くの人達が法話を聞きに行ったのだろうが、後藤さんや同じ念仏者の森戸達夫さんなどは別格だったのだろうか、個人的に指導を受けていたらしい。法話は対話型であったようだ。弁論部の活動が盛んであった時代、言葉が重要であった。
この点も、外遊の体験によるのだろう。

求道会館はレンガ造り、木造トラストの小屋組がかけられた2階建て。
関東大震災や太平洋戦争にも消失を免れた。
戦後は、荒れ果て使用されずお化け屋敷の状態となったが、東京都指定有形文化財に指定され、2002年に修復された。
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荒れ果てた改修前の会堂と修復後。

月に1回、見学会があり、一般の人も参加出来る。僕も昨年参加し、見学した。
大正時代を感じる建築だ。
勿論、宗教施設で浄土真宗の教会堂だから、仏典の講座なども開かれる。
貸し出されて、音楽会なども開催されるらしい。
詳しくは、予定を確認する必要がある。

それにしても、大正時代の新仏教の動きが盛んだった頃。
後藤さん達は、何を思い何を感じ、どう生きようとしたのか?
生前にお聞きしておきたかった。

求道会館の、現在に生きる仏教はどうあるべきかの模索は続いている。

*会堂の写真は求道会館のホームページより。
  1. 2009/05/21(木) 23:33:01|
  2. 後藤清一
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信願寺の門柱 水戸市緑町1-2-1

親鸞24輩の唯心房が創建した信願寺。

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参道の入り口に、御影石の門柱が目に入る。
開創700年を記念して昭和29年に寄進された。

この門柱(或は塔と言ってもよいのだが)をデザインしたのが彫刻家・後藤清一。

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塔(スツーパ・卒塔婆・塔婆)は多種多様なものが有る。
この塔は相輪塔の一部の様に思える。
塔の頂上部、覆鉢以上の請花・九輪・宝珠を心柱と共に造形した様に見える。
何れにしても、何処にも類例がない。

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明らかに、仏塔だ、手前の小さな塔も同様だ。

円柱部分は唐招提寺の柱と同じ様に、中間が膨らんでいる。
しかし、この柱は力強い四角柱で、さらに面取りされて優しくもある。

この作品が後藤清一さんの作と知ってみれば、いかにも後藤さんだ。
若くして親鸞に帰依し、仏様を信じた後藤さんでなければ出来ない造形だ。


思索の跡を綴った『隠者の片影』(昭和38年刊)
という著作には、
「宗教に芽生えを置かない芸術は神のものかもしれない。されど人間の芸術とはいひがたい」
との言葉がある。
  1. 2009/05/20(水) 23:51:15|
  2. 後藤清一
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水戸での三食

粗衣粗食の生活

戦前の生まれとしては、粗衣粗食が当たり前と思っている。
かつて無い不況、不景気だと言われる。
しかし、大方の人は昔の王侯貴族の様な生活をしている、と思う。

戦後間もない頃の記憶は、誰も継ぎの当った服や靴下を着ていた。
麦飯は未だましで、薩摩芋やカボチャなどが入ったご飯だった。
空き地に、トマトや豆類など食べられるものを植えた。
白米なんて夢の世界だ。

誰もがその様な状況だから、貧しい。と感じたことはなかった。
無いのが、あたりまえ、だった。
たかだか、60数年前のことだ。

いつでも、その時代に戻っても大丈夫と思える。
木喰上人ほどとはゆかないが、質素な食生活を心がけている。

そうは思っているが、今回の水戸での数日は盆と正月がが一気に来た、感じだった。

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土曜日は毎月16の昼食会。会場は水戸市大町の「レストラン・よこかわ」
この会は来年で30年を迎える。
会則なしで12時に集って食事をしながらの雑談。
食事のメニューは、お店にお任せ。本日はハヤシライス。
よこかわのメニューは、昔ながらの洋食が多い。

食時を含めて、正味1時間で散会というのも良い。
先輩お二人が、最近亡くなられた。と言う話を聞いた。
ご冥福を祈ります。

65歳を過ぎると、何があってもおかしくない。
生きている間を、せいぜい楽しみたいものだ。

夕食はKさん御夫妻と東海村の「Q寿司」へ。
銀座の名店「Q寿司」で修行して、暖簾分けしてもらい、開業したらしい。
本家と同じとはゆかなくとも、それに近いのでは、と思う。
もっとも、銀座のQに行った事ないから分からないが。

とにかく、美味しい鮨屋さんだと思う。
夜の部の開店草々の5時半頃は、ゆっくりと食事をたのしめる。

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日曜日はYさん御夫妻と、ひたちなか市の「木挽庵」に。
以前は、日曜の昼間は休業だったが、最近は営業しているようだ。
山菜のてんぷら蕎麦を食べる。
大好きなコシアブラもある。
水戸近辺は、季節のモノが手軽に食べられるのが嬉しい。
食後は、サザコヒーに。

サザの画廊で十河正典さんの個展が開かれていた。
この展覧会を観るのを目的で出かけたのだ。
今回は、スペインやローマに滞在した際に撮影された写真も展示されている。
各々、1年間滞在していたから、生活者の視線だ。
旅行者の観光写真とは大きな違い。

水戸に戻って、Uさんのお宅に。
ご自宅で採れた”蕗の煮物”をご馳走になる。
彫刻家・後藤清一さんの話しから始まり、ヴェートーベンの弦楽四重奏の話しなど、あっという間に時間が過ぎた。

遠藤周作の著書を5冊お借りする。
Uさんの見解では後藤清一、陶芸家の岡部嶺男、遠藤周作には共通のところがある、とのことだ。

夕刻、エビネンコさんが拙宅を訪れUさんから戴いた蕗の煮物、饅頭を頂きながらの話し合い。クラッシック音楽や水戸芸術館などの話題を重点に、ご意見を拝聴。

月曜日は南町の魚屋「山大」でサシミ盛り合わせ、アナゴのやわらか煮を買って一杯飲みながらの夕食。

この数日間の食生活に大満足。
皆々様、ごちそう様でした。
  1. 2009/05/19(火) 18:27:17|
  2. 食生活
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プロフィール

たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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