よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

水戸巴里祭

水戸巴里祭

学生時代、友人の友人にシャンソン歌手のバックバンドを勤めているピアノ弾きがいた。
丁度その時分は岸洋子の「夜明けの歌」がヒットし「第一回巴里祭」が開催されるなどシャンソンが全盛の時代であった。
シャンソン喫茶やライブの空間も多くあり、僕は友人の縁で新橋の「ホテル日航」のラウンジ・バーなどの演奏をステージの陰でタダで聞くことが出来た。芦野宏やジルベール・ベコーのコンサートなども行った。
フランス映画全盛の時代で、イブモンタンは映画でも活躍した。シャンソンは僕の青春時代の一頁でも有った。
暫く経って、ジョルジュ・ムスタキを聴いた時代もあった。
越路吹雪のリサイタルを一度は観たいと思ったことも有るが、叶わぬままになった。
たまに、シャンソンを聴いてみたいと思うことがある。

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7月19日、午後6時30分から茨城県民文化センターの大ホールにおいて「水戸巴里祭」と称するシャンソンの祭典が開催された。
昭和38年(1963年)7月14日フランスの革命記念日をシャンソンの祭典として祝う「巴里祭」を歌手の石井好子が中心になって東京の日比谷野外音楽堂で開いた。
5000人の大観衆を集めたこの催しは、以後「巴里祭」として定着した。その集いは未だに継続していて今年は45周年を迎えている。

今回の「水戸巴里祭」はそれと直接の係わりは無いようだが、茨城では初めての試み。菅原洋一、戸川昌子の大御所2人をメインに、青木FUKI、クミコをはじめ歌手が総勢14人、10人編成のバックバンドと豪華な内容だった。
客席は中年女性が圧倒的に多かったが、花束を抱えた人たちも多く、ほぼ満員と大盛況だった。

僕がこのコンサートを知ったのは、『月刊・ぷらざ』に掲載されたクミコのインタビュー記事だった。
水戸出身のクミコはシャンソン歌手としてデビューして25年、幅広い活躍をしている。明るい人柄で何でも積極的に行動する印象を受け、この機会に聞いてみたいと思った。同じくゲスト歌手の青木FUKIは茨城キリスト教学園高等学校の卒業生。
ミュージカルからアルゼンチンタンゴまでこれまた幅広い活躍をしている。
今回の聴衆は彼女のフアンというか、キリスト教学園の卒業生グループがかなり多数のという感じを受けた。
僕は今回、始めて彼女の存在を知った。申し訳ありません。

その上、今回のこのコンサートのプロヂュースをしたのは高萩市出身、日立第二高等学校の卒業生でシャンソニエ・サロン・ド・ミュージック『バルバラ』を運営している千葉美月という人物。
彼女は歌手ではないがフィナーレに出演者たちとステージに登場した。
小柄な体つきに係わらず、これだけのショーの切り盛りするパワーを感じた。
フランスのシャンソン歌手バルバラを愛し、名前を冠したシャンソニエを運営し、フランス人歌手を日本に招聘し公演活動も行っている。茨城出身の女性でこういう方が居るのは素晴らしい。

パンフレットのプロフィールを読むと、歌手全員がそれぞれに活躍しているプロばかり。
一応名前だけでも紹介しておこう。いさらい香奈子、エカテリーナ、渋谷文太郎、杉浦美恵、竹下ユキ、友部裕子、中山エミ、槇小奈帆、宮薗洋子、米田まり、RIO,ピエール・ジル。シャンソンをメインとはしているがその他のジャンルでも活躍している人達だ
。次から次へと華麗なステージが繰り広げられた。しかし、出演した歌手が多すぎて、一人当たり2曲しか歌えないから、盛り上がりに欠ける。もし次年の企画があるとすれば出演者は今回の半分以下でいい。
一人が5曲以上を歌い、じっくりと聴けるステージを愉しみたい。

今回初めての企画にしては大成功だったと思う。
このような催しは継続してこそ意味がある。来年も開催されることを期待している。

シャンソンは特に、大ホールで聞くよりはシャンソニエのような狭い空間で、語りかけるような状況で聴くのが最高だろう。上京した際、シャンソニエ・バルバラか戸川昌子の『青い部屋』訪れ非日常の世界に浸ってみたいと思った。
  1. 2007/07/23(月) 11:38:26|
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福島、大子、常陸大宮

このところ旅づいている。先週は福島に行きサクランボ刈りをした。
ついでに、福島競馬にゆく。
馬券を買ったが見事に外れた。
美しい競馬場で美しい競走馬の姿を見られたのは幸せであった。

大子の町外れ「けん坊」なる料理屋へ昼飯食べに行った。
かなり辺鄙なところなのに予約でいっぱい。隠れ家のようなお店が流行のようだ。
常陸大宮で自作のからくり人形、(オートマタ)を展示している喫茶店「ぺぺ」に行き、ご主人堀江出海さんの解説付きで動くのを見た。
この話しは茨城新聞2007年1月3日号、園部章記者の取材が詳しいので興味がある方はお読みいただきたい。

そのまえの週、大子の温泉旅館で「ピンクボンゴ」のコンサートに行った。
百畳敷きの座敷で繰り広げられたスーパーセション。
宮本大路、高橋ゲタ夫、宮崎カポネ信義、中島徹、村上ポンタ秀一。
何れ劣らぬ芸達者で、唄に語りにと何でもあり。
楽しめました。よくをいえば、まともなジャズやブルースでも聴きたかった。

町おこしとかいうけど、こんなライブコンサートなら人は集まります。
  1. 2007/07/10(火) 02:25:44|
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ブタペスト(中欧・東欧の旅#9)


5月29日
早朝の散歩は昨晩と反対方向を歩いてみる。経済状況は良くなっているとはいえ、まだまだの部分も有る。
100年前頃のハンガリー全盛時代に作られた建物が補修も出来ずにそのまま使用している。というのも多かった。
勿論、ほんの一部の地域では有るが。

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旅の予定も本日のブタペスト市内観光が最後、明日は日本に向かう。
毎日真夏並みの暑さだ、しかし湿度が無いから、快適な毎日だった。
ブタペストはドナウの真珠と讃えられる町、ドナウ川が街の中央を南北に流れる。西岸のブダは王宮を中心歴史的建造物が多く、東側のペストは近代的な美しい街並みがひろがっている。
1872年に完成した全長2.3キロの大通りがアンドラーシ通リ。
大きな5階建ての建物が連なる景観は今日も保たれ、ブタペストで最も美しい通りだ。ハンガリー建国1000年を記念して作られた英雄広場までの道路の下には世界で3番目に出来た(1番はロンドン2番はニューヨーク)地下鉄が走っている。この通りは午後の自由行動で地下鉄に乗ったり歩いたりする。

英雄広場でバスを降りて、広場と周辺を観光する。
中央には36mのポールの上に大天使ガブリエルが立ち、足元にはマジャル族の隊長アルパードなどの騎馬像が有る。半円を描いた大列柱の間にはイストバーンなどハンガリーの国王などの像が並ぶ。英雄広場に向かって左手に国立美術館が在る。英雄広場の先には緑豊かな市民公園が広がっている。
温泉、動物園、遊園地、などがあり、1896年に開催された博覧会の展示棟も残っている。

再びバスで、アンドラーシ通りを王宮方面に向かうが道沿いにリストの記念館も在る。
リストはハンガリー人だがウイーンやパリで活躍し、晩年故国に戻った。ハンガリーは音楽の国でもある。国立オペラ座の外観だけを眺める。此処も中を見たかった。この旅では沢山見残した所が多いが、日程的にしょうがない。

聖イシュトバーン大聖堂に行く。ハンガリー建国の父で聖人に列せさられているイッシュバーン王を祀っている。
1851年から1905年まで50年近い歳月を要して完成した、高さ96m直径22mという巨大なドームだ。外観も凄いが内部も絢爛豪華。此処も感心して眺めるのみ。キリスト教徒で無い者には理解できない。

ドナウ川を見下ろすブダ側の王宮の丘。
王宮はベーラ4世が13世紀半ばモンゴル軍の来襲で破壊されたエステルゴムから都を移し、建設を開始した。
マーチャーシュ1世によりルネッサンス様式に改修されるが、16世紀にオスマン朝との戦いで壊滅的打撃を受けた。その後ハクスブルグ家の支配下に入るとマリア・テレジアの手による大規模な増築が行われた。
しかし大火や二度の大戦でも被害を受け、現在見られるのは第二次大戦後に再建されたもの。
現在も改修工事が続けられている。

この日はスペイン大統領がブダペストを訪問されるので、午後一時からは王宮の丘全体が立ち入り禁止になるとのこと。
沢山の警備の兵士がトラックで乗り入れてくる。丘に登るケーブルカーも本日は運行中止だ。
王宮の丘からくさり橋を真下にペスト側を観る景色は素晴らしい。ドナウ川畔の華麗な外観の国会議事堂や自由橋。旧王宮は現在博物館、ギャラリー、図書館などになっているが、外観を見て回るのみ。
マーチャーシュ教会も改装工事で足場が組まれて外観は見えない。ここは中に入って見学できた。16世紀のトルコ軍来襲で教会はイスラム寺院に転用され、トルコ支配の後は18世紀にキリスト教会に修復された。
その影響なのだろう、柱や、壁面にイスラム的装飾が残っていて独特の雰囲気が在る。

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マーチャーシュ教会の東側、ドナウ川に面したがけの上、漁夫の砦と呼ばれる白亜の砦は1902年に完成した。
砦の前に立つ騎馬像はハンガリー初代国王聖イシュトバーンで台座には彼の生涯が描かれている。
彼の像はハンガリーのあちこちで見られる、ハンガリーを代表する人物だ。砦の姿はハンガリー的なとんがり屋根をした大小7つの塔を持つユニークな回廊である。
この塔の姿は印象的で対岸のペスト地区からの眺めも良いが、この建物を下から見上げた形も見事である。

漁夫の砦からくさり橋に。ブタとペスト(ペシュトと発音するのが本来の呼び方)を結ぶ橋として1839~49年に建設された。ブタペストのランドマークだ。橋を渡ってデアーク・フェレンツ広場に。この辺りがペシュトの一番の繁華街、その一角のレストランで名物料理のグヤーシャの昼食でメニューは牛肉入りのパプリカスープ。

昼食の後はお待ちかねの自由行動。
近くの地下鉄駅で一日乗車券を購入してまずは歩きで中央市場を目指す。
モザイク模様の屋根に覆われた建物で、ブタペスト最大の常設市場だ。1階は野菜、ソーセージ、香辛料など、土産になりそうな品がいっぱいで小さな店が整然と並んでいる。2階に行くエスカレーターが何台かありそこは衣料品売り場。1階でパプリカの粉末を土産用に買う。これはもう少しかって置けば良かった。お土産としては最適品だ。
広大な市場で1階のみを見て出てきてしまったが、帰国後ガイドブックを読むと、地下に活魚、野獣肉(鹿、兎、野牛)、鳩肉、雉肉、アヒル肉などの売り場もあったようだ。そのような珍しい食材売り場も覗いて見たかった。

パリではアールヌーボー、ウイーンではゼセションが流行した頃、ハンガリーに独特の芸術運動と建物が現れた。
光沢のあるカラフルなタイルを屋根や壁に使用した装飾的な建物だ。
その代表が工芸博物館。ホテルに近い所なので行ってみるが、受付のオバサン、こちらも叔父さんだが、凄く無愛想で帰ろうかと思った。せっかく来たのでチッケット買って入りましたよ。
ティファニーとガレ世界的に有名なガラス作家の特別展。
2階は常設の日本の民芸館のような所。天井は高いし、空間は広いのでゆったりと見られる上に、殆ど観覧する人がいない。
一度ホテルに戻り小休止した後、買った通行証を使う事にした。

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先ずは世界で3番目の地下鉄。
これで世界の地下鉄の創始された地下鉄道に乗ったことを、誰か証明書発行して欲しいところである。

地下2メートルくらいの所を走っているから階段を10段も下りればすぐプラットホーム。
電車もとても細身でさすが若い。その後、トラムで街を半周する。水着も持参したが、残念ながら有名な温泉にも入れず。
その後、丁度夕陽が落ちる時間となり、慌てて高台に移動するが僅差で見ることが叶わなかった。再び街のあちらこちらを彷徨し、ホテルに戻る。明日はブタペスト発、アムステルダム経由で日本に。楽しいたびでした。
  1. 2007/07/06(金) 20:09:35|
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ドナウベント(中欧・東欧の旅#8)


5月28日
この日の朝の散歩はホテルの隣の公園に行く。
かなり広い公園で、地形もアップダウンが有り変化に富んでいる。芝生や日時計のような植え込みも手入れが行き届いている。
何箇所かの池や沼も有る。睡蓮が咲き、鳥が水飲みする浅い池もある。
ヨーロッパの庭園・公園作りは長い伝統がある。特に公園の概念は日本に無かったのかもしれない。この公園も朝6時頃バイクに乗った管理人が、散水用のバルブを開け閉めして敷地に水遣りをしていた。
公共施設は作った後の維持管理が一番大切なことだ。

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爽やかな朝の散歩を終えてのち、今日はドナウベント地方を経由してドナウの真珠と称されるブダペストに向かう。
15年前に新潮社発行のとんぼの本『世紀末ウイーンを歩く』と言う本を買い、一度ウイーに行きたいと眺めていた。
今回も持参したがほんの一部しか訪ねる事が出来なかったのは残念だ。
機会に恵まれ、再度ウイーンを訪れる機会の有ることを願う。

8時にウイーンを発って1時間、ハンガリーとの国境に着く。
一人がパスポートを見せるのみでなんら問題ない。検問所の隣のコンビニで両替とトイレ休憩。
国境線も通貨の両替も必要ない時代がすぐに到来する感じを受けた。

ドナウ川は、オーストリアを過ぎてハンガリーに入ると、大きく湾曲して南に向かう。
「ドナウベント」とはドナウの曲がり角と言う意味で、このエリアはハンガリーで最も美しいパノラマが開けたところとして知られる。ドナウ川が国境線を形成し、隣国スロバキアが対岸に見える。
マジャル人でハンガリーの初代国王・建国の父、聖イシュトバーンの生誕地であるエステルゴムの街。
ハンガリーの首都として栄えたが、13世紀半ばモンゴルの来襲で壊滅的な打撃を受けブダに遷都する。
今年二月のウズベキスタンの旅でもそうだったが、モンゴルの世界制覇の夢はアジアからヨーロッパにかけて大きな爪痕を残している。1715年以来ハンガリー・カソリック教会の大本山で19世紀に改築された高台に聳える大聖堂は国内最大規模。
もちろん堂内も広々としており本祭壇のマリアの昇天の絵は一枚のキャンバスに描かれた物としては世界最大。
とにかく見事な物です。

ヴィシェグラードはドナウ川がほぼ直角にカーブするのを見下ろす山の上の要塞を中心に発達した街。
山頂付近の展望台からドナウ川を眺める。ドナウ川に沿ってブダペストを目指す。

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ドナウベントで一番人気の有る街センテンドレは、14~17世紀のオスマン・トルコの支配を避けたセルビア人がこの地に定住して発展した町。尖塔の先端部がタマネギのようになっているのがセルビア正教会の建物で当時建立されたものが4つ残っている。
静かで落ち着いた街並みを好んだ芸術家が移り住み芸術村となった。
現在はレストランなども多く完全な観光地だが、中世の街並みをうまく活かして楽しい町だ。
ここでパプリカを粉末にしたものや、ハンガリー特産の貴腐ワイン(トカイワインとして有名)を買う。
このワインはこの晩ホテルで飲んだ。
貴腐ワイン独特の香りはあったが、高級品ではなかったので甘みは少なかった。
センテンドレから1時間でブダペストに入り5時にホテルに着く。夕食はホテルのレストランで。
食後にホテル近辺を散歩する。ホテルから5分も歩けばかなり猥雑な繁華街も有る。コンビニに立ち寄りおつまみやビールを仕入れる。ホテルで食べた夕食でお腹の具合は十分だが、寝る前にお酒を飲み一日を振り返るのも旅の楽しさ。
早速トカイワインの栓を抜き貴腐ワインを味わう。
独特の香りはあったが高級品ではなかったので甘みは少なかった。
しかし日本で味わう機会は少ない。

  1. 2007/07/06(金) 19:57:04|
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ウィーン(中欧・東欧の旅#7)


5月27日早朝

例のごとく周辺の散歩に出かける。ホテルから500㍍も歩くと昔の村の集落らしきところに出た。
小さな教会があり、店も数軒ある。新しい住宅も建っていて、今では郊外の住宅地らしい。
その一画でパブレストランを発見する。此処はなかなか良さそうだ。
今晩の夕食はこの店にしようと決めた。でも今日は日曜日、果たして営業しているか?

8時発でウイーン市内観光に。
先ずはベルベデーレ宮殿に。オイゲン公の夏の離宮として建てられた。
広大な敷地の両端に上宮・下宮のバロック建築がありその間のなだらかな丘を巧みに利用したフランス式庭園が広がっている。上宮は19・20世紀の絵画館と成っている。グスタフ・クリムトの「接吻」エゴン・シーレの「死と乙女」をはじめオスカー・ココシュカの作品など19世紀末の画家たちのコレクションで有名だ。開館時間も未だだし、どちらにしてもこのたびでは庭園と建物を鑑賞するだけの予定。今回の旅は日程的に、せっかく来ながら外から見るだけが多かったのは致し方ない。

今回の旅はウイーンの市内を観光する時間は少ない。
取り敢えずリング通をバスで1周し、主な所を車窓から観光しましょう、と言うこと。
王宮庭園、王宮、美術史博物館、自然史博物館、国会議事堂、ブルク劇場、市庁舎、など次々と現れる。

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リングをぐるりと回ってからハプスブルグ家の夏の離宮シェーンブルン宮殿に行く。
とにかく広大な宮殿、一般に公開されているのは2階の部分。次から次へと豪華な部屋が連なる。
宮殿裏側に回るとこれまた広大な庭園。一番奥のほうのグロリエッテという建物まで歩いて20分かかると言う。
その他に日本庭園、動物園、植物園なども有るそうだが一望できない広さだ。
おそらく一日中見ていても見切れない。

いかにも日本人の観光の典型かもしれないが、次に向かうのはウイーン郊外ヴァツハウ渓谷のドナウ川遊覧のクルーズ、と盛りだくさん。ウイーンから約1時間30分メルクに到着。
メルクにはベネデクト派の大きな修道院がある。
映画にもなった『薔薇の名前』の原作の小説縁の修道院だ。
修道院の敷地内のレストランでの昼食はスープと大きくて太いソーセージそしてジャガイモ。船着場はすぐ近いらしい、出発まで時間が有るので修道院内を見学する。かなり大きい修道院だ。奥のほうに聖堂が有ったので入ってみると、これまた、絢爛豪華な大聖堂でビックリ。
メルクからワインの産地として栄えたクレムスまでの35キロを船で行く。
青きドナウというがドナウ川はなぜか緑色。岸辺の緑が映えているのか?或いはアオコなのか分からないが余りきれいな水には見えない。左右の断崖の頂上にはいくつかの古城の跡が在るのが見える。ブドウ畑なども見えるし、岸辺には水遊びする人たちもいる。この日は暑かった上休日だから家族連れが多い。全裸で遊んでいる人も数多く見受けられ習慣の違いを感じた。頻繁に他の船とすれ違う。各国の旗を船首に付けているから、ECの拡大は各国の行き来を自由にさせているのだろう。3時間のクルーズを満喫してクレムスに着き、再びバスでウイーンに戻る。オペラ座前に着いたのが5時。
これからは自由行動だ。美術史博物館に行きたいところだったが、入場時間の関係で、ゼセッシオン(分離派美術館)に行くことにする。

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ゼセッシオンはオットー・ヴァーグナーの影響を受けた建築家ヨーゼフ・マリア・オルブリヒトや画家のクリムトは1897年に古い芸術や芸術家たちに反旗を翻し、新たな芸術の創造を目指してゼセッション(分離派)を結成した。
これは19世紀後半に流行した歴史主義から「分離」するものだった。この運動には作曲家マーラーなども加わり、独自の分離派運動を繰り広げていく。オルブレヒトは活動拠点としてゼセション館を建てた。
屋上に金色のドームを載せた建物はユニークな形で、雑誌などにも写真が紹介されている。
地下にベートーベン・フリーズと呼ばれるクリムトの壁画がある。1902年の完成時にはマーラー率いるウイーン・フィルのメンバーが「第九」の終章を演奏した。第二次大戦で破壊されてしまった館は再建されて壁画も残った部分を修復して展示されている。

次なる目的はウイーンのカフェでコーヒーとケーキで寛ぐ事。
行き先の候補はいくつか有ったが有名度でミーハーしてホテル・ザッハーのカフェにした。店内のインテリアはとても優雅である。ザッハー・トルテにコーヒーを頼む。お味の方は日本で似たものほうが繊細で美味しいかな?とにかく話の種に召し上がりました。

ザッハーホテル前の広場から王宮庭園に抜けてモーツアルト像の前に立つ、記念写真の定番の所だ。
リング通り沿いに歩きブルク門の前に。通りの反対側は美術史博物館と自然史博物館で同じような建築が並んでいる。
門を入って新王宮に、王宮の中は博物館や図書館に成っている。何れの建物も外から見るのみで歩け歩け。王宮前の広大な広場は市民庭園まで繋がっている。市民庭園は各種の薔薇の花が真っ盛り、薔薇の香りに囲まれた西洋の公園の雰囲気に浸る。

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公園の隣はブルク劇場でネオ・バロック様式の装飾的な建物。反対側にゴシック様式で尖塔が伸びる市庁舎。この辺りはウイーンの中心部、建築物の宝庫だ。歩き回ってゼセションの前まで戻ってきた。近くの地下鉄駅から地下鉄1号線で終点まで。さらにトラムに乗り換え終点まで。どちらも終点までのればホテルの前に着くので安心だ。時間は既に9時過ぎている、今朝探しておいた村の居酒屋のような所に行ってみる。幸いなことに営業中で、家族・仲間内・カップルなどが楽しくやっている。
先ずは地ビールを頼む、自転車に乗ったイラストのライダーと言う銘柄。フルーテイーでさっぱりしている、飲んだことの無い味だ。テリーヌに焼アスパラと鴨のロースト、今回の旅で一番美味しい食事だった。
11時30分頃ホテルに戻る。


  1. 2007/07/06(金) 19:38:10|
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チェスキー・クロムロフ(中欧・東欧の旅#6)


5月26日
朝7時30分にホテルを発ちチェスキー・クロムロフに。プラハから3時間30分くらいで、オーストリアの国境に近いところだ。ガイドブックの説明には“中世の街並みそのままの姿で700余年もの間、周囲からわすれられてきた、静かで美しい街、チェスキー・クロムロフ”ホンマかいな?とも思うがNHKの番組で何度か放送されたのを見たので訪ねてみたかった街だ。

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チェスキー・クロムロフ城はボヘミヤ地方でプラハ城に次ぐ規模を持つ大きな城館。13世紀に創建され、その後次々と新しい建物が付け加えられてそれぞれの時代の様式が見事に調和した巨大な複合建築となった。駐車場を出てから丘を登り城の入り口に着く。陸橋を渡り隣の丘の城門到る。眼下にヴルダバ川と蛇行して馬蹄型の中洲にオレンジ色の屋根の街並みが見える。城内はガイドつきのツアーで回るが部屋の出入りごとに鍵をかける。礼拝堂、サロン、舞踏会の間や美術品も展示されているのでそのような見学をさせるのかもしれない。円筒形の城の塔を横目に城を後に橋を渡たって市内に。橋から崖上に聳える城と塔の眺めは圧巻としか言いようが無い。広場を取り囲む小さな家並みと細い石畳は中世そのもの。

 城の下に戻り地ビールを飲めるビヤレストラン・エッゲンベルグに行く。隣の醸造所で作られた出来立てビール、スープとローストビーフの昼食。城の裏側を回り駐車場に。丁度城を一周した訳だが、裏から見るとかなりの部分を修復中なのが良く分かる。

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2時にチェスキー・クロムロフ出発して2時50分にはオーストラリアとの国境に着く。リンツを経由してウイーンに向かう。オーストリアに入るとやはり経済的格差を感じる。やはりチェコの経済はマダマダなのだな、と思った。ウイーのホテルには6時30分に着く。HOTEL AIRO TOWERはかなりの郊外のようだがホテルの前までトラムが通っている。部屋割りをしてから市内に夕食に出かける。

今夜の夕食はウインナー・シュニツエル(子牛のカツレツ)スープとサラダが付いている。肉を叩いて伸ばし、からからに焼いた感じで、マ~余り旨い物でもない。夕食後ホテルに戻る。ホテルの裏側は大きな公園のようだ。

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  1. 2007/07/06(金) 17:50:59|
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プラハ(中欧・東欧の旅#5)

5月25日プラハ
いよいよ待望のプラハ観光の日。先ずは高台に聳えるプラハ城に。14世紀、カレル4世の時代にほぼ現在の形となった。敷地内には旧王宮や宮殿、修道院などが建っている。中でも圧倒的な存在感を持っているのが聖ヴィート大聖堂だ。

プラハ上の裏側の北門から城内に入る。正門ではないのだが、紺の制服を着た衛兵がお出迎え。衛兵さんと一緒に記念撮影をする。中庭を抜けて聖ヴィート大聖堂に。ゴシック様式の堂々たる大建造物でプラハのシンボル。プラハ市内のかなり遠くから見通す事が出来る。宿泊しているホテルはかなり離れているが、我が部屋からも昨夜ライトアップされたプラハ城を遠望することが出来た。長い年月をかけて建設が続けられ、完成したのは1925年のことだと言う。礼拝堂の窓のステンドグラスの一つがミュシャの作品。大聖堂だから内部にはいくつかの礼拝堂がある。その中の一つが聖バーツラフ礼拝堂で、礼拝堂の上に宝庫があり、ボヘミヤ王国の王冠が保管されている。

反対側の南向きに旧王宮と旧宮殿が建っている。旧宮殿は現在大統領の公邸で執務室や迎賓館となっている。旧王宮を見学するが、3階の大広間は15-16世紀に作られ、中世ヨーロッパ最大と言われた柱の無い空間で、天井のアーチの骨組みは美しい曲線だ。ホールの奥に礼拝堂、議会の間などがある。

王宮を出ると、ロマネスク建築の聖イジー教会、現在は美術館になっている。その脇の通りを抜けると、カラフルな小さな家がずらりと並んでいる。“黄金の小道”と言われている所だが土産物屋が殆ど、その一軒にカフカが住んでいたと称される店も有るが事実ではないようだ。12世紀に作られた黒塔と呼ばれた建物を抜けて東門から城外に出る。坂を下って、カレル橋を目指す。途中に土産物屋や古本屋などがある。とある古本屋の店頭で2007年のカフカのカレンダーが目に留まった。今年のカレンダーだから、もう半年近く過ぎているが、一週間ごとに写真と英語の解説文が書いてある。絵葉書代わりともいえるし、カフカについての知ることが出来るので買い求めた。

カレル橋はカレル4世の時代、15世紀初めに完成したゴシック様式の橋。ヴルタヴァ(モルダウ)川に架かる長さ約520mの橋の両側の欄干には30体の聖像が並んでいる。ヨーロッパ中世建築の傑作。橋のアチコチには観光客目当ての似顔絵描き、ストリートミュージシャン、手作りのアクセサリー売りなどもいる。プラハには世界中から観光客が来ているが、この橋とこの近辺がプラハで一番の名所だろう。橋を渡って旧市街に。旧市街の中心は旧市街広場、中でも庁舎のカラクリ時計は有名。1時間ごとに仕掛けが動くところは見られなかった。広場の中央にあるヤン・フスの大きな群像は修理中なのか、シートに覆われており見ることは出来なかった。塔の町、建築博物館の町と呼ばれるプラハだが、テイーン聖母教会も二つの尖塔と多くの小塔が屋根を飾る珍しい建造物だ。プラハは音楽の町とも言われるようだが、アチコチでコンサートが開かれているようだ。町を歩いているとコンサートのチラシを配っている人もいる、教会で開かれていることも多いようだ。残念ながら聴きに行く機会は無かった。

広場の周辺を見てから昼食のレストランに。観光客の増加に連れて、旧市街のはずれの住宅地まで急激にレストランなどに変わっているようだ。工事中のところも多い。そのようなレストランの一軒で、グラーシュというビーフシチューのような物を食べた。他にもヨーロッパ各地からの団体さんでいっぱい。食事後は自由行動で各自が夜までにホテルに戻れば良い。僕たちはミュシャの美術館を観てから市民会館を初めとしたプラハの代表的な建造物を見て回ることを考えていた。

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先ずはミュシャの美術館を目指したが、食事したレストランがどの辺か確定できないで出発したから道に迷う。かなり近くまでたどり着きながら、無駄足をすること15分間、ヴァーツラフ広場に至る。此処を基点にすれば地図が読める。この広場は1348年カレル四世が新市街を建設した時に造られた広場である。幅60m、長さ700mの道路のような広場はしばしばプラハ市民の集会の場となり1989年のビロード革命の際にも何十万人もの市民が広場を埋め尽くした。現在はプラハ随一の繁華街。道路の両側には素晴らしい建築が多い。下からでは見えないのでほぼ一回りして反対側から眺め、写真を撮った。突き当たりの重厚な建物は国立博物館だが館内には入らなかった。

ムハ美術館はチェコ生まれのムハ(ミュシャ)のパリ時代のポスター等が展示されている。聖ヴィート大聖堂のステンドグラスの下絵、スケッチ、油絵など余り知られていない作品が多い。絵のモデルや家族の写真などもある。パリやアメリカで華々しく活躍したあと、1910年にチェコに戻ってからの作品は、故郷を愛するムハの魂に触れることが出来る。次に市民会館に向かう。

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プラハ随一の華麗なアールヌーヴォー様式の館が市民会館、1911年に建設された。半円形のファザードを飾るのはカレル・シュピラルの原画によるモザイク画。アーチ部分には金文字で『プラハに栄あれ、時の流れをものともせず、すべての紆余曲折に耐えてきたように』とあり、当時のチェコ社会の経済的文化的な高揚を体現する建物なのだ。建物全体はネオバロック様式だが内部はすべてアール・ヌーヴォー(チェコではセセションと呼ぶ)で華麗に装飾されている。
「市長の間」「スメタナ・ホール」などミュシャやチョコの芸術家に依って装飾された空間は残念ながら見学することは出来ない。ファザードや玄関付近は見る事が出来た。

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1階のカフェテリアはアールデコ風な装飾だ。この素晴らしい空間でコーヒーとケーキを頂きくつろぐ事が出来た。一休みしたところで再びプラハ建築めぐりに出かける。次なる目的はプラハ中央駅の待合室。建築後100年を経たとはいえ、半円球で黄金色のドームはいささか古び、崩れている所があるにしても見事な物である。駅の機能はすべて地下に移されている。そこから歩いてユダヤ人地区に行きたいと思ったが、妻の脚力は限界のようで駅前の公園でしばし休憩。その内、空模様が怪しくなりいつでもホテルに戻れるようにヴァーツラフ広場近辺の建築を観て回る。これが“犬も歩けば名建築に当たる”感じで、正方形、長方形、半円形、三角形、菱形など個性豊かに装飾された建築に多多出会うことが出来た。
 たまたま見つけた食料品店でパン、生ハムなどの惣菜、ビールなどを買い求め、博物館前から地下鉄に乗りホテルに戻る。部屋でそれらで夕食。旅の途中は部屋で夕食をとるのも良いものだ。
 ユダヤ人地区のシナゴーグに行けなかったのはやはり残念。
  1. 2007/07/06(金) 08:57:49|
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ドイツからチェコへ(中欧・東欧の旅#4)

5/24 チェコへ

走ること45分、早くもチェコとの国境に着いた。国境で如何なる理由か判らなかったがかなり待たせられた。旧ソ連時代は同盟国ということで国境の管理は簡単だったらしいが、ソ連崩壊後は国家主義が台頭し、旧社会主義であった国同士が厳しい管理体制をしている感じだ。新しい高速道路網も出来ているようだ。国境のチェックポイントを除けば国境線が何処に在るのか判らない。チェコもEUに加盟したが通貨統合には未だ参加していない。しかし、東西の融合は確実に進んでいる印象を受けた。ボヘミア盆地は麦の収穫時期、日本の農村地帯と同様の雰囲気だ。チェコは基本的に工業国らしいが食料も十分に自給出来ている感じを受けた。のどかな田園風景が続く。

赤い屋根ボヘミヤ盆地夏野行く

ボヘミヤの盆地どこまで麦の秋


20代の頃、漠然とボヘミアンと言う言葉に憧れを持っていた。本来はボヘミア人ということなのだろうが、ジプシーのイメージからなのか定住しない人・芸術家などの自由人・俗世間に逆らった生き方をしている人などを指す。そんな言葉とはまるで関係なさそうなボヘミアの地。

*チェコの歴史と文化の豆知識。ソ連主導の社会主義国家であったチェコスロバキアで1968年民主化を求めるプラハの春と呼ばれる運動が起きたが、ソ連の軍事介入により鎮圧される。ソ連崩壊を機に1989年ビロード革命を経て民主国家になるも、スロバキアとの政策の対立により1993年に分離独立。2004年EUに加盟。

*チェコを代表する文学者はフランツ・カフカ。僕は一度も読んだことがない。建築博物館の都とも呼ばれるほど、プラハの街の建物は多様であるという。今回僕は『芸術新潮』1999年11月号"特集・麗しのプラハ“を持参した。この号に取り上げられている建築をどれだけ観ることができるか、が楽しみ。また、アールヌーボーの寵児とも呼ばれた画家のミュシャ(ムハ)の作品をみること、特に市民会館の壁画を見ること。

*音楽に対して敬意をもって接する国民性が、素晴らしい芸術家を育んできた。《我が祖国》を発表したスメタナ(1824-84年)、《新世界より》を発表したドヴォルザーク(1841-1904年)は国民的音楽家である。この両者は日本でも親しまれている。モーツアルトもプラハを愛し何度も滞在している。

プラハの市街に入ると道路は大渋滞でバスは一向に進まない。添乗員のTさんも「何でこんなに混雑しているのでしょうね」と不思議がるほどだった。田園地帯を走って来たせいかもしれないがプラハは大都会だ。チェコの人口は約1000万人、プラハは約130万人。100万都市は僕の理想。京都、札幌、仙台などがそうだが都会と田舎が共存しているのが良い。因みにスロバキアは500万人で、首都のブラチスラバは40万人。中心部は中世の街並みを残しているが、周辺部は再開発の道路やビルを建設中だ。しかし、中心部に新しい建物は一つも眼に入らなかった。景観条例のような物があるのだろうが、古い町並みを残そうという意識の高さは尊敬に値する。6:45にホテルに到着する。町外れの20数階建てのホテルだ。近くには地下鉄の駅があり、さほど中心から外れているほどではない。

夕食は新市街(新市街といっても昔からの街だが)のビヤレストランに行く。豚のカツレツを食べ、ピルゼンタイプのラガービールを飲んだ。チェコはピルスナービールの発祥の地。国民一人当たりビールの消費量が世界一というビール大国。世界的に有名なバドワイザーも本来はチェコが源流。但しアメリカのバドワイザーとチェコのヴドヴァイザー・ブドバルは全くの別物。本場の本物は格段に旨い。(ブドは、この日でなく別な日に飲んだが)旅行中いろいろな所で各種のビールを飲んだ。酒屋で各種の缶ビールを買い毎晩ホテルでも飲んだがそれぞれに個性があった。しかも日本より安い。ミネラルウオーターより安いビールも沢山有った。
  1. 2007/07/06(金) 08:52:30|
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マイセン・ドレスデン(中欧・東欧の旅#3)


5/24 マイセン・ドレスデン観光。

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ドレスデンの北西15kmエルベ川のほとりにあるマイセン。ヨーロッパで始めて白い磁器がアルブレヒト城で作られた。街の高台に聳える初期ゴシック様式の大聖堂で隣接するのがアルブレヒト城。それらが一体化してとてつもなく大きな塊に見える。エルベ川の対岸に渡り見渡して全体像が分かる。城内に1710年から150年間王立磁器製造所が在った。城内には入らずバスの車窓から見るだけ。街外れにマイセン磁器工場がある。マイセンの磁器は交差した青い剣がトレードマークの世界的な高級品。工場の一部に博物館があり、見学者用のミニ工房が在って手造りの過程を見学できる。3階には展示館もあり新旧の逸品がずらりと並んでいる。もともと王侯貴族向けだから感心して眺めるだけ。1階には直営販売所があるがこれまた参考までに見るだけ。

来た道をエルベ川沿いに戻りドレスデンの市街に向かう。「エルベの真珠」「エルベのフィレンツエ」と讃えられるドレスデン。ボヘミアの森に水源を発したモルダウ川は、プラハの町を二分しながら北へ流れ、ドイツ領に入るとエルベ川と名を変える。その最初の大きな町がドレスデンである。

第二次世界大戦で壊滅的被害を受けたドレスデンは、長い年月を経て歴史的建造物の多くが再建され修復された。ドレスデンの事例が典型だが、今回の旅では各国でそのような事をたくさん見聞した。日本と違って石の文化のせいなのか?歴史的な建造物或いは町並みを保持しようとする姿勢が日本より強いのか?これも大きな課題である。

劇場広場に面していくつかの大建築が並ぶ。ツインガー宮殿もオリジナルと同様に復元された。内部は個性豊かな博物館になっている。ラファエロの『システィーナのマドンナ』を初めフェルメールの『窓辺で手紙を読む女』、レンブラント、ブリューゲル、デユーラーなどの巨匠の作品が目白押し。陶磁器のコレクションはアウグスト1世が集めた日本や中国の陶磁器、初期のマイセンなどが展示されていた。広々とした中庭も見事である。

ゼンパーオーパーは1826年完成のドレスデン・ザクセン州立歌劇場。ヴァーグナーが宮廷楽長・指揮者を勤めたドイツオペラの本陣。ここも完全に破壊されたが音楽の都ドレスデンこの名声に答えるべく、財政難の東ドイツ時代に完全に修復した。ドレスデン交響楽団は今も世界的な評価を得ている。内部に入れずに外観を見ただけにしても、音楽好きには憧れの所に立っているのだ、音楽の素地に欠ける僕には猫に小判といえる。

ドレスデン王宮の外壁を飾る『選帝候の行進』と題されたタイルの壁画。二万四千枚のマイセン焼きのタイルを使い延々102メートルに及ぶ大画面。空爆により城は崩れ落ちたがこのタイルの壁画だけは残った。目地がないタイルの張り方だから長大な絵画である。ここも壁画以外の部分は修復された建築物。

ドレスデンは昔から河畔の美しさが讃えられてきた。エルベ川河畔に設けられた見晴台(といっても城郭の城壁のような本格的な建造物だが、)は“ブリュールのテラス”と呼ばれている。此処から橋を通して新市街や大聖堂、劇場の眺めは素晴らしい。殆どが再建された建物だが、鉄分を多く含んだ石は黒ずむのが早いということで、昔と同じ景色を目にすることが出来る。

2005年10月世界各国の要人が参加して行われたフラウエン(聖母)教会の完成祝賀式が行われた。この教会の復活は、ドレスデンの再建の象徴と言える。1990年わずか14名の市民で作られた再建委員会が世界に向けて大々的に寄付を募った。寄付金は1億ユーロを超えた。戦後50年間広場にはいずれ再建されることを夢見て36万個の瓦礫が積み上げられていた。再建工事は瓦礫を1つ1つ計測しコンピューターで元の位置を調べてはめ込み、場所の分からない石も材料として内部に使用し手完成させた。

今この教会は世界平和のシンボルとなっている。この近辺は戦後作られた新しい建築物を取り壊し、以前の町並みを再現する工事が進行している。あと何年か後に訪れれば往時の町並みがより完成していることだろう。この近くのビアレストランでビールとジャガイモ、ソーセージの昼食を済ませて2時にチェコのプラハに向けて出発した。

走ること45分、早くもチェコとの国境に着いた。国境で如何なる理由か判らなかったがかなり待たせられた。旧ソ連時代は同盟国ということで国境の管理は簡単だったらしいが、ソ連崩壊後は国家主義が台頭し、旧社会主義であった国同士が厳しい管理体制をしている感じだ。新しい高速道路網も出来ているようだ。国境のチェックポイントを除けば国境線が何処に在るのか判らない。チェコもEUに加盟したが通貨統合には未だ参加していない。しかし、東西の融合は確実に進んでいる印象を受けた。ボヘミア盆地は麦の収穫時期、日本の農村地帯と同様の雰囲気だ。チェコは基本的に工業国らしいが食料も十分に自給出来ている感じを受けた。のどかな田園風景が続く。

赤い屋根ボヘミヤ盆地夏野行く

ボヘミヤの盆地どこまで麦の秋


20代の頃、漠然とボヘミアンと言う言葉に憧れを持っていた。本来はボヘミア人ということなのだろうが、ジプシーのイメージからなのか定住しない人・芸術家などの自由人・俗世間に逆らった生き方をしている人などを指す。そんな言葉とはまるで関係なさそうなボヘミアの地。

*チェコの歴史と文化の豆知識。ソ連主導の社会主義国家であったチェコスロバキアで1968年民主化を求めるプラハの春と呼ばれる運動が起きたが、ソ連の軍事介入により鎮圧される。ソ連崩壊を機に1989年ビロード革命を経て民主国家になるも、スロバキアとの政策の対立により1993年に分離独立。2004年EUに加盟。

*チェコを代表する文学者はフランツ・カフカ。僕は一度も読んだことがない。建築博物館の都とも呼ばれるほど、プラハの街の建物は多様であるという。今回僕は『芸術新潮』1999年11月号"特集・麗しのプラハ“を持参した。この号に取り上げられている建築をどれだけ観ることができるか、が楽しみ。また、アールヌーボーの寵児とも呼ばれた画家のミュシャ(ムハ)の作品をみること、特に市民会館の壁画を見ること。

*音楽に対して敬意をもって接する国民性が、素晴らしい芸術家を育んできた。《我が祖国》を発表したスメタナ(1824-84年)、《新世界より》を発表したドヴォルザーク(1841-1904年)は国民的音楽家である。この両者は日本でも親しまれている。モーツアルトもプラハを愛し何度も滞在している。

プラハの市街に入ると道路は大渋滞でバスは一向に進まない。添乗員のTさんも「何でこんなに混雑しているのでしょうね」と不思議がるほどだった。田園地帯を走って来たせいかもしれないがプラハは大都会だ。チェコの人口は約1000万人、プラハは約130万人。100万都市は僕の理想。京都、札幌、仙台などがそうだが都会と田舎が共存しているのが良い。因みにスロバキアは500万人で、首都のブラチスラバは40万人。中心部は中世の街並みを残しているが、周辺部は再開発の道路やビルを建設中だ。しかし、中心部に新しい建物は一つも眼に入らなかった。景観条例のような物があるのだろうが、古い町並みを残そうという意識の高さは尊敬に値する。6:45にホテルに到着する。町外れの20数階建てのホテルだ。近くには地下鉄の駅があり、さほど中心から外れているほどではない。

夕食は新市街(新市街といっても昔からの街だが)のビヤレストランに行く。豚のカツレツを食べ、ピルゼンタイプのラガービールを飲んだ。チェコはピルスナービールの発祥の地。国民一人当たりビールの消費量が世界一というビール大国。世界的に有名なバドワイザーも本来はチェコが源流。但しアメリカのバドワイザーとチェコのヴドヴァイザー・ブドバルは全くの別物。本場の本物は格段に旨い。(ブドは、この日でなく別な日に飲んだが)旅行中いろいろな所で各種のビールを飲んだ。酒屋で各種の缶ビールを買い毎晩ホテルでも飲んだがそれぞれに個性があった。しかも日本より安い。ミネラルウオーターより安いビールも沢山有った。
  1. 2007/07/05(木) 23:39:58|
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ベルリン(中欧・東欧の旅#2)


5/22(火)
6時に起床して、ホテルの近辺を散歩する。早朝の散歩は旅に出た際の僕の日課。ホテルの裏側は川に面してマリーナに成っていてクルーザーが係留されている。庭もきれいに管理され花々がきれいだ。入り口に面した通りには市電が走っており、町並みは落ち着きがある。

近代史、現代史の舞台となり「栄光のベルリン」「悲劇のベルリン」の両極端を味わい、人間の愚かさ、はかなさを生々しく見せつけたベルリン。「ベルリンの壁」に象徴される分断の悲劇と統合の都市。それをたったの半日で観ろ!と言うのが今日の観光予定。もう少し時間が欲しいよ!

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ベルリンの壁は殆ど取り壊されてしまって残っている所は少ないそうだ。シュブレー川添いに一部が残っておりそれをバスの車窓から眺める。そこを除けば壁が何処に存在していたのかを見分けるのは困難だ。いくらか暗さを感じさせるあたりは旧東ベルリンなのかな、と言う程度だが今大変貌を遂げているのが東地区だ。ベルリンの目抜き通り、長さ1.4㌔幅60㍍のウンター・デン・リンデンを通ってブランデンブルグ門に向かう。プロイセンとドイツ帝国の栄光を見つめてきた門。ベルリンの壁崩壊の日に全世界へ映し出されたベルリンを象徴する門。門自体の修復は終わったが周辺は大改造中で大きなクレーンが何台か立ち並ぶ。門の前の広場の中央にはアメリカとロシアの国旗を手にした軍服姿の女の人が二人、写真をご一緒にどうぞ!と投げ銭入れを前に置いて微笑みかける。あまりに平和すぎる光景だ。

シュブレー川の中州はベルリン発祥の地で博物館島と呼ばれ5つの美術館、博物館が在る。ベルリンの主要な建造物は旧東ベルリンに属していて、それらの修復工事が行われている、博物館島のメインであるペルガモン博物館も同様で改修工事が進んでいる。ギリシャ神殿のような外観をもった本館の1階は古代ギリシャ、古代ローマ、メソポタミアの文化遺産が展示されている。今回のベルリンでの目玉がこの博物館の鑑賞。古代都市ペルガモンは現在のトルコ西部のベルガマ。その遺跡の一部「ゼウスの祭壇」は入り口を入ってすぐの大ホールに再構築されている。祭壇を飾っていた浮き彫は神々と巨人との戦いがテーマで、ゼウスやアテナが巨人たちと戦う場面が描かれている。ヘレニズム期の彫刻の代表的なものであるが、遺跡のほんの一部だ。祭壇脇に古代ペルガモン都市の模型が作られているのでその様子をうかがうことが出来る。ギリシャ神話についてまったく解からないのが残念である。ヨーロッパを知るにはギリシャ・ローマの知識は欠かせない。ギリシャやローマの歴史や文化を理解することは今後の大きな課題だ。

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1階の南翼には「イシュタール門」と門に至る「行進の通り」が再現されている。イシュタールは古代バビロニアの女神で古代バビロンの中央北入り口の門で紀元前6-7世紀に建設された一部が再現されている。彩釉煉瓦で覆われた壁面は、これまた見事な建造物だ。

ブランデンブルグ門の西側はテイーアガルテンと呼ばれる広大な芝生と森の公園になっている。その端にドイツ連邦議会議事堂の巨大な建物がある。1999年に修復工事が完了した。屋上にはガラスの円蓋がのっている。観光客にも大人気で、連日朝早くから見学の行列が出来ている。それに連なって行政府の建物が並んでいる。しばしそれらの光景を眺め、6月17日通りを西に進むとロータリーの真ん中に黄金に輝く勝利の女神ヴィクトリアを乗せた戦勝記念塔が堂々と聳えている。そこから南西に、ベルリン動物園の脇を抜け、西ベルリン時代の繁華街クーダムを通って、シャルロッテンブルグ城に行く。初代プロイセン国王フリードリッヒ1世が、妃ゾフィー・シャルロッテのために1699年に建てた離宮である。見学は門から入り口までの前庭を見学するのみで内部には入らなかった。それなりではあったが、時間を掛けて見に来るほどでもない感じであった。

それよりは統一後の再開発により急激に変貌を遂げたポツダム広場、ソニーやダイムラー・ベンツ等の複合ビルを含めた現代のベルリンを見たかった!のに、残念である。鳥肉・ジャガイモ・豆の昼飯を食べてのち、2時15分にザクセン王国の首都ドレスデンに向かって出発。約3時間の行程で6時にメルキュール・エルベ・プロムナードホテルに着く。エルベ川を背にした郊外の静かなホテルだ。夕食の後ホテル近辺を散策する。新しい道路もあるが廃屋やつぶれた工場の跡地のような物見受けられ、気のせいかもしれないが、統合後の旧東ドイツ領の経済面の停滞振りが感じられた。



  1. 2007/07/05(木) 20:54:35|
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出発(中欧・東欧の旅#1)


出発前日5月21日夜。
旅の準備はほぼ出来たが、1週間前にひいた風邪が未だ完治せず体調が若干不安だ。事前の勉強をもう少しするつもりだったが出来ないままで、どの街の地図も未だ頭の中に入っていない。プラハとブダペストの町の違いも良く分からないのだ。

今回の中欧・東欧4ヶ国の旅はKLM航空でアムステルダムに着くので、乗り継ぎを入れて5カ国を旅することになる。8泊10日のバスの旅だが、走行距離は九州までのバス旅行程度かもしれない。
*結果的にはかなりゆったりした行程だった。

勉強不足での出発だが、中世のヨーロッパの面影を残す、町や村を見られるのは大きな楽しみだ。特に「百塔の街」「黄金の街」「建築博物館の街」といわれるプラハが愉しみ。しかしどの街も時間が無いから、何処まで見られるか?ウイーンに関しての滞在予定の内容はどうして?と思うほど少ない。駆け足旅行とはいえ、自分の目で中欧・東欧の国々を見る機会をもてた事は大きな幸だ。見て来てから勉強しても遅くは無い。
今回は、デジカメを買ってはじめての旅。展覧会に出すような写真?を撮ってみる事も課題の一つだ。

KL0862便11:45アムステルダム行きテイクオフ。12時間の飛行予定。機体は新しく、オンデマンドのシートテレビ付き。ウトウトしながら何本かの映画を見る。「硫黄島からの便り」「バベル」などの最近作や名作まで多数が準備されていた。「恋愛小説家」〈ジャック・ニコルソン主演〉が良かった。食事はB級か。時々後部に行ってストレッチ等をする。その時ドイツでバレエの教師をしているというKさんという日本人の青年と話を交わした。今では色々な分野で活躍する日本人も多いことを実感する。ぐっすり寝ることは出来なかったが、さほど退屈しないでスキポール空港に着く。ベルリンに向かう飛行機に乗り換えるまでの時間、カフェテリアでハイネケンを飲みサンドイッチを食べたり免税店を眺めたりして2時間を過ごす。9時45分ベルリン空港に到着。バスに45分ほど乗って郊外のホテルに11時に着く。旅の初日はどうしても長旅になる。

今回はN旅行社の添乗員同行の旅。どのような添乗員かで旅の楽しさは大きく左右される事になる。添乗員のTさん、声は小さいし明るさが無い。これで大丈夫なのと不安になる。結果的に云えばTさんは京都出身で入社歴20年のベテラン。最近は添乗する機会も少ないというが、とぼけた味が有って誠実な人柄。さらに同行の皆様方も旅なれていて、ということで愉しい旅であった。メンバーについて言えば半数は我が家と同じようなリタイヤした老夫婦が半数、姉妹、お祖母ちゃんから孫まで5人の家族旅行など総数25名。移動の大型バスもゆったりと座れて快適だった。初日だけは遅く着いたがそれ以外は5時頃にはホテルに着くような日程で心配したほどの強行軍では無かった。

今の時期のヨーロッパは午後10時頃にやっと暗くなるから、9時台は安心して歩ける。昼食後にフリータイムの日が3日有り団体旅行といえども自由な時間も多かった。ホテルは街の中心或いは郊外もあったが、地下鉄・トラム等の交通機関が近かったので夕方からも十分に時間を満喫できた。部屋や浴室などの設備関係も明るく清潔で満足できた。
ベルリンの宿は COURTYARD BY MARRIOTT BERLIN KOPENICK
*住所は GRUNAUER STRASSE 1 12557 BERLIN
ガイドブックの地図では載ってない郊外のようだ。旧東ベルリンのエリアなのかな。

今回の旅は旧ソ連の影響下にあったところが多く、経済的には遅れた所。逆な面で言えばそれが幸いして昔の面影を残していて旅情を感じさせてくれた。
  1. 2007/07/05(木) 20:49:06|
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プロフィール

たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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