よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

骨董・古美術品の“イ・ロ・ハ”

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     (画像撮影・木村功氏)天平時代の大安寺古瓦~うたたね展


何処の国でもいいから旅をして、未知なるものを体験したい。自分の心が安らぐような焼き物を初めとした骨董・古美術品に出会う機会に恵まれたい。この二つが僕にとっての関心・重点事項だ。
どちらも“美しいもの・心が安らぐもの”と言う共通するものが有る。単に美しいと言うだけでなく、その背景或いは根本にある歴史や文化を知らなければ視えて来ない点が重要なことである。“眼で見る”が基本だが知的な要素が加味されないと楽しみが半減してしまうのが子供の物集めとは異なるが他は同様だ。
何かにのめり込むと、奥が深いから楽しい、と言う。奥が深いのは識る事の楽しさが繰り返し出てくるからだろう。

このブログは旅と古美術の二つの項目を主眼としてスタートした。残念だが、未だ思うような方向に進んでいない。先ず書きながら自分の頭の中の考えを整理したい。その内何かが見えてくるだろう。

先輩が亡くなって数年たち、故人の集めた物を処分する相談を受けた。具体的に処分するというより、もし売るとすれば、いくら位で売れるか?との話しだ。僕は茨城県公安委員会交付の「古物商許可証」を所持し(犯罪者で無い限り誰でも貰うことは可能)古道具屋の真似事のようなことを数年経験した事が有る。骨董の泥沼に落ちて40年くらい抜け出せずにいる。という事でお声がかかったようだ。しかし、最近は古美術店を歩くことも稀だし売り買いもご無沙汰している。そのような訳で見せられた品物が具体的に幾ら位なのか?は判らない。高いのか・安いのか或いは値段の付くものか・付かないものか、の見当がつく程度だ。人それぞれの蒐集の仕方が有る。僕は僕なりの考え方を述べた。
蒐集品をどう考えるか?はとても大切なことだ。

イ.買い求めた骨董・古美術の蒐集品は本人が生きている間に処分すべき、と僕は考えている。本人にとって執念を込めた宝物であっても、遺された者にとっては単なるガラクタにしか過ぎない。と感じる場合が多々ある。或いは、好きな物ではないが金銭的な価値が有るかもしれない。とあちこち聴いて回ったりする人達もいる。大体において本人が考えていたほどの価値が無いのが一般的だ。テレビの番組で「お宝鑑定団」というバラエティーが有るがそれなどによくある話だ。
本人の周り(遺族を含め)に誰かそれらの物が好きな人がいれば、差し上げるか或いは金銭で受け渡しするのも良かろう。人の命より物の命が永いのは当然で、それだからこそ良い物は永遠とは言わずとも永い間、手から手へと渡って行くのである。

ロ.価格に関しては古美術商も一般の物販業と同様で、最低2-3割の利益は必要だし、やたらに回転する業種ではないから、もう少し利幅が無いと成り立たない。そうなると定価の半額位の仕入れが妥当だろう。直に転売する際は小額のマージンの時もあれば、珍品であればかなりの利幅を取れる品も有るだろう。
製造して販売する商品とは違うので製造原価に基づく価格の決定ではない。という事で価格の設定はかなり曖昧な所がある。だから、古美術品の価格に不信感を持つ人が多いだろう。
しかしながら、品物・作品を構成する多くの要素、作者或いは生産地、時代、真贋、かたち、いろ、素材、完結度、状態、来歴、人気、等等。それらを総合的に評価した価格と言うか相場のようなものが形成される。買い手と売り手(店と客)は自分自身の考える踏み(価格)を頭に入れて価格の交渉をする。勿論、定価がついている店も多いが、ある程度交渉の余地はある。
最近欧米型のオークション会社による入札或いは競りによる売買も増えてきた。それが本当に妥当な価格なのか?の疑問も有るが、より適正な価格が構成される要素は有るので今後は更に一般化していくことだろう。

*以上のような訳で、買った品物を売却しようとした場合、買値或いは買値を上回ることは稀である。半値で売れれば上出来で買値の3割ならば普通、最悪の場合一割と思うべし。「そんな―」と思う方も居るかも知れない。気に入った“ものを買う”と言う行為に3割の楽しみ料を払った。次にその品を所持することにより眺める、撫でる、花を挿す、自慢する等の満足感で3割。そこまでで買値の6割は使われた。ならば、現物の価値は買値の3割位が妥当だろう。美術品は経済的な取引であるより品物を通した心の問題のほうが大切。具体的な品物を買ったというより形のない・品物の背後にあるロマンを買ったともいえるのだ。事ほどさように美術品に対し経済的に過大な期待はしないほうが良い。

ハ.大なり小なり誰もがブランドの魔術に惑わされる要素を持っている。作品のそのものより作品にまつわる諸々のことに眼が行きがちになるものだ。形や色など美的であるか?自分の心に響いたか?好みに合うか?など素直に見ることが一番大切なことであろう。純粋に作品と対峙して買うか買わないか、売るか売らないか等を自問自答した上で自分自身で決定すべきだろう。
  1. 2007/06/28(木) 10:04:55|
  2. 骨董
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人 生 出 合


大相撲の元横綱三重ノ海の武蔵川親方の還暦土俵入りが東京お台場のホテルグランパシフィックメリディアンの地下宴会場で6月16日午後6時30分から行われた
武蔵川部屋は元横綱武蔵丸、元大関武双山や雅山を擁している出羽一門の角界の一大勢力。出羽の海部屋は水戸出身の常陸山が創立したので水戸との縁は深い。
土俵入りは部屋の創立25周年記念パーテイーと併せて行われた。歴代の横綱のうち還暦の土俵入りを果たしたのは8人目との事だ。メタボリックシンドーロームの典型のような相撲取りは短命が多いらしい。まして横綱となれば精神的なストレスも更なのだろう。それを乗り越えてだから、誠におめでたい話しだ。

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1200人に見守られた武蔵川親方は、太刀持ちに出島、露払いに雅山と自身が育てた2人の元大関を従え会場内の特設土俵に登場。横綱昇進時に先代武蔵川親方〈元幕内出羽ノ花〉から贈られた三つ揃いの化粧回しに還暦にちなんだ深紅の横綱を締め、雲竜型の土俵入りを披露した。会場からは「三重ノ海~、日本一~」の掛け声もかかった。
その後、臙脂色のタキシードに着替えた親方は木遣りの先導で元横綱武蔵丸、元大関武双山を初め雅山、出島、垣添等の力士を従えて再登場。壇上に各界の著名人が揃っての鏡割りの後、北の湖相撲協会理事長の挨拶と乾杯の音頭で祝宴が始まった。

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祝宴に花を添える余興の一番手は書家の川又南岳さんの書の揮毫。先ほどの自民党大会で安部首相と共に「美しい国・日本」を揮毫した事は記憶に新しい。壇上に2メートル四方の紙張りのパネル4枚が準備され、武蔵川親方の座右の銘『人生出合』の4文字を揮毫する。練習無しのぶっつけ本番だが見事に書きあがった。舞台正面の「武蔵川部屋創立25周年記念パーティー・武蔵川親方の還暦土俵入り」の看板下に吊るされた人・生・出・合の4文字は力強く舞台を演出した。

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僕は川又さんのお手伝いの一員として参加したので、無事に済んでほっとした。
広い会場内を歩き回って写真を撮り、元横綱大鵬の姿や武蔵丸の巨大さに感心し、新橋の芸者衆等のきれいどころにみとれ、いかにも金持ちそうな力士の後援者(タニマチと言うそうだが)達を眺めたりと興味津々だった。
雅山とツーショットの写真を撮れた事はこの日のよき思い出。「雅山さん、もう一頑張り!」を期待してます。元大関武双山も藤島親方として武蔵川部屋で後進を指導しているが背広姿が似合ってました。外国籍の関取が全盛の時代だが水戸勢の相撲取りが活躍し、近い将来に横綱が誕生すれば言うことないのだが。
その後の余興も、太鼓や新橋の芸者衆の唄と踊り、歌舞伎役者の踊り、小野やすし司会のカラオケ大会など出し物がいっぱい。延々10時近くまで続きました。
2007・6・18


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  1. 2007/06/18(月) 18:54:20|
  2. イヴェント
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中央アジアの真珠ウズベキスタン世界遺産の旅

中央アジアの真珠ウズベキスタン世界遺産の旅

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平成19年2月9日~16日

11時15分に成田を離陸し関西空港を経由してタッシケント空港に着いたのが現地時間6時40分。日本との時差が4時間だから14時間くらい経過している。実質の飛行時間は8時間30分位。空港からバスで約20分タシケントパレスホテルに到着。薄暗く古めかしいが格式を感じさせるホテルだ。旧ソ連邦時代は党幹部、高級官僚、観光客などしか利用できなかったのでは?と思わせる雰囲気がある。大きな広場が目の前にある。新市街の中心地と言うような立地である。すぐ隣はウズベキスタン歴史博物館が在る。クシャン朝の仏像があるが、残念ながら今回の旅では行くこと叶わなかった。
チェックインの後バンケットルームで遅めの夕食。食事の前に現地旅行会社「キャラバンサライ」のガイドのバフさんがUS$を現地通貨のスムに両替してくれる。100㌦で125,000スム、厚さにして2cmはある。大金持ちになった気分だ。ちなみに1000スムが約100円。
料理は羊肉入りのスープ、羊肉のパイ、そしてサモサ。基本的には全ては羊を主体にした料理、此処の様な物が毎日続くことに成る。ホテルの部屋も最近改装したようでバスルームも清潔で美しい。長旅の疲れもあるし、翌朝も早いので風呂にも入らずそのまま就寝。夜中に目覚め、早朝に風呂に入る。翌朝は7時発の国内線でウルゲンチに向かうので4時45分にロビーでの軽食後5時半にホテルを発つ予定だ。

空港は霧でもやっていた。昨年のバングラデシュの例も有るので出発を危ぶむが、いかにも旧式のソ連製プロペラ機は爆音を轟かせ7時15分に離陸。予定飛行時間は1時間40分。ところが2時間を過ぎても着陸の気配なし。9時35分に着陸したのはヌクス空港、ウルゲンチの北方100キロの所らしい。海岸線が200kmも後退したアラル海は地球温暖化、環境破壊の象徴として旅する人も多いが、その拠点がヌクスの町。ウルゲンチの気象状況が良くなるまで暫く待機するようだ。予定の通りに行かないのも旅の楽しさ。観念してローカル空港の待合室で過ごす。再度11時10分に離陸し11時40分にウルゲンチ空港に着く。予定より約3時間の遅れだ。
バスにてヒワの町に向かう。これから最終日までこのバスで移動するとのこと、大型のバスは後部座席にサロンシートも有りゆったりと座れる。昨年のバングラデシュとは大違い。ウルゲンチ~ヒワは30kmで約40分の行程。ヒワはアムダリヤ川の下流のオアシスの町。
ヒワは8世紀にアラブ人によって占領されてイスラム世界の一部になった。ヒワの旧市内イチャン・カラは中央アジアの一般的なオアシス都市の景観がそっくり保存(一部は再建)されているのだ。1990年にユネスコの世界遺産に登録されている。城壁を入ってすぐ、ホテル・アルカンチに着く。民家風のホテルだ。

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ヒワは高さ約10㍍、周囲2.2kmの城壁が町を取り囲み4箇所の門がある。その門を結ぶように大きな公道が有り、そこから複雑に伸びる小道に沿って人々の住む街区が広がっている。しかし現在は、ホテル・レストラン・みやげ物や等観光に付随する施設やそれに関連する人たちが住んでいるようで、一般の人が生活している感じはしない。まるでキリコやデルボー或いはマグリットの幻想的な絵画の世界のようだ。観光のシーズンを外れている今だからこそ、そのように感じさせるのだろう。昼食は民家風のレストラン。日本家屋のように靴を脱いで入り、お膳のような大きいテーブルにお座りでの食事。メインの料理は肉じゃが。但しお肉は豚肉でなく羊。回教国だから当然だ。羊の肉は苦手な人が多いが私は大好物。滞在中、朝食以外は何らかの形で羊を食べた。
キョフネ・アルク 古い城塞(内城)と言う意味。新宮殿であるタシュ・ハウリ完成後、それと区別する意味でこう呼ばれるようになった。本来ここも他の都市と同じようなアルク(宝物庫、緊急時の住民の避難所)としての役割を果たしていたが、17世紀頃からハーンの住居となり、同時に行政府として代々のハーンによって拡充されていった。現在のものは殆ど19世紀に修復或いは改築されたもの。
アルク(城砦)・ハン(王)・モスク(回教寺院)・メドレセ(神学校)・ミナレット(塔)および廟はこの国を理解するキーワードの代表だ。多くの遺跡は現在もなお修復中であり、長い間にわたり破壊と修復が繰り返されている。
先ず、入り口の近くのズイダン(牢獄)の跡からはじまり、ホラズムの一般的な住宅と同様、中庭の周囲を部屋が囲む形をとっている所を巡る。ハーンの公的な場所、私的な場所・ハレム(正妻、側室、使用人の間)、裁判の場、造幣所等も有る。
また、北の隅にはアク・シャイフ・ババの高台がある。ここはヒワで一番古い建物と言われ、14世紀頃だという。ここからはイチャン・カラ全体が見渡せる。別途に入場料を払って登るのだが素晴らしい眺めだ。
アルクの前には広場がありそこで死刑者の首切りも行われたと言う。広場の中央には窪みがあり、そこに血を流したと言う。イスラム世界の刑罰は過激で大量の首切りや、死刑囚を高い塔からの突き落とすなどが行われたという。更に奴隷制度もあった。
隣は、ムハンマド・ラヒム・ハーンのマドラサ。現在はヒワホテルとして使用されている。ヒワに限って言えば殆どの建物は当初の目的以外に使用されている。この日の夕食は、このホテルのレストランですることになる。脇には、当初中央アジアで一番高いミナレット目指して建築が始まったが26メートルで中止になった塔が建っている。
金曜モスク(ジュマ・モスク)18世紀の建造だというが、古代アラビア風の古典的モスクで212本のコラム(柱)で造られている。柱の素材は胡桃や楡だという。この国の建築で特徴的なのは木の柱やドアに精巧な彫刻が施されていることだろう。一枚の扉、一本の柱に何年かの手間を惜しみなく掛けたものばかりだ。
タシュ・ハウリ宮殿新たな宮殿として1830年代に築かれたと言う。ハレムとそれに関する人達を集めたという黒い馬車も展示されている。隣接した所にキャラバンサライ(隊商宿)もある。
イスラーム・ホジャのマドラッサとミナレット20世紀初頭大宰相を務めたイスラーム・ホジャは、当時ロシアの保護下にあったヒワで、イスラムに拠らないマドラッサの学校制度の導入や、西欧式の病院の建設など、当時としては急進的な改革を行った。しかしそれが保守派の反発を買い、1913年に暗殺されてしまう。これらの建物は生前の1908年~10年の間に建てられたもので、ヒワさいごの大建築となった。ミナレットは高さ45メートルでヒワでは最も高い。
マドラッサ(神学校)はどの町でもモスクと共に中心部に位置しており、しかも複数ありヒワだけでも7つぐらいある。現代のマドラッサは一般的な学校教育が行われているようである。

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イッチャン・カラの中心部の散策を終えて、ホテルに戻りしばし休憩。夕食は元神学校のホテル・ヒワのレストランに行く。シーズンオフで宿泊客はなく、レストランの客は我々のみ。メニューは昼食のときと同じようだが室内は高いドームの下、贅沢な空間での夕食であった。中央アジアは葡萄の原産地、ウズベキスタン製のワインもある。さらに、『アジア』と言う名の地ビールもある。回教の国、と言ってもかなり規制は緩やか。ウイスキーは一般的ではないようだが、ロシア製のウオッカはかなり飲まれているようだ。
昨年のバングラデシュはどの土地に行っても同じような食事のメニューだったが今回はかなりちがう。しかし、食器などはどうしてこんなに同じ食器を使用しているのか?と思うほど同一のものを使用していた。ソ連邦時代の名残なのだろうか。酒に関してもバングラとは大違い、何処のレストランでもビールとワインは置いてある。
レストランの外に出ると、辺りは真っ暗。懐中電灯持参の方が居られたから良いようなもの、手探り状態でホテルに戻る。経済状態は上向きつつあるようだが、電力状況はいまひとつのようで、電圧が一定でなく部屋の電気は時々明るさが変化する。事前の旅行の日程表で承知していたことだが、バスタブは無くてシャワーのみ。そのシャワーも全然熱くならず、シャワーを使うのを断念する。部屋は広いのだがベッドは小さいしインテリアも殺風景。更に、床がフワフワ揺れる感じでいまにも抜けそう。
この床の件については翌日の朝食の際に、納得する。朝食の場所は1階のホール。凄く広い部屋なのに2階を支えているのは柱のみ。壁は周りのみで内部には壁が無いのだからかなり無理な計算。地震でも有ったら、一気に倒壊だね。ちなみに、朝食のメニューは蜂蜜、ナン、杏ジャム、干しぶどう、くるみ、アーモンド、チーズ、バターなど、これらが大体の定番だが量が多い。

この日の走行距離は約450㎞。キジルクム沙漠(赤い沙漠)を走ること6時間の予定。町を抜ける途中家畜のバザールを見学。山羊、羊等の市場、どれがヤギでどれがヒツジか分からないが人と動物でいっぱい。このような市場が各地にあるとのこと。さすが遊牧民の国。
サバクと言う字は砂漠と沙漠の2種類あるが、ここは沙漠の感じ。地理でステップと呼ぶ多少の草地が在る。わずかの草を求め遊牧している羊も見られる。道路は舗装してあるがかなりの悪路。しかもウズベキスタン全土に見られた傾向だが土に塩分が多く塩で真っ白に見える耕地もある。今でも問題だが今後は更に大問題になるだろう。
沙漠地帯は天然ガスが埋蔵されているようでアチコチで掘削現場、パイプラインの埋設工事をしている様子なども見受けられる。天然ガスを原料とする化学工場も在った。いずれにしてもこれからと言う状況、今後の経済発展が約束されている感じがした。
砂漠の中にポツリとチャイハナ(茶店)ドライブインの食堂が何十キロおきに現れる。その中の一軒で昼食。羊肉の肉饅頭と饂飩。これはなかなか美味しいものだった。店頭では少年がシシカバブー(羊の串焼き)を焼いていたが、時間が無くて食べられなかったのは残念。
沙漠を走っているのだが時折、アムダリア川と平行に走ったりする。アムダリア川は天山山脈を源にアラル海に注ぐ川だが至るところで運河を掘って灌漑用水にするので、アラル海は以前より 200キロメートルも後退し、湖が三箇所に分かれてしまい、しかも魚も棲めない塩湖になってしまったそうだ。
ブハラには5時頃到着。ブハラ はブハラ州の州都で人口25万人。ところが、昭和40年小学館発行の「世界の旅」と言う本の中では『人口7万人昔しながらのわびしさそのまま残している』とある。サマルカンドと共に長い歴史を持つがより伝統的な都市の姿を保っているのはこちらのようだ。
アルクの脇を通りぬけて旧市内に。最初に行ったのは、カラーン・モスク前のウズベク織物スザニーを見学、と言うことだが実演販売の土産品売り場。キリムのような織物と絨毯の店。隣の焼き物店なども覗く。焼き物はいかにも中央アジアというのもあり土産にいくつか買う。陶器で何焼?訊いたが名前を忘れた。その辺りに物売りしている少女から布のバッグなどを買う。絵葉書、ガイドブックなども買う。どちらにしても安い買い物。この日は此処まで。肝心のブハラ旧市内の見学は明日。
ブハラ・パレス・ホテルは旧市内から20分、新市内に在るが旧市内を遠望できる場所。翌朝の朝日の出の頃は、素晴らしい眺めだった。夕食はホテル内だが一度外に出てから行くような場所。客はここも他には1組。料理も似たような物で変わらず。
新潮文庫「遺跡の旅・シルクロード」井上靖著は58歳にして初めてソ連領中央アジアに旅し、青年時代からの夢を果たしたのが昭和40年。以来著者は憑かれたようにシルクロード地帯を訪問・・・とあるが、たかだか40年前には大変な思いをして訪ねたところ。それが今では何の苦労もなしに来る事が出来る。もう少し勉強してこないともったいない。

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2月12日 今日は終日ブハラ観光。アルクを通過してカラーン・モスクに。タジク語で大モスクという名の通り約1万に収容の巨大な金曜モスク。795年アラブ人により最初のモスクが建てられて以来常に金曜モスクが置かれてきた場所。中庭が広く、夏の礼拝は屋外でも行われるらしい。脇にカラーン・ミナレットはブハラのシンボルで高さ47m。かつては時間になると4人の呼びかけ人が一斉にアザーン(礼拝の合図)を朗読したと言う。昨年のバングラはかなり熱心なイスラム国家だから、早朝、夕刻と何度もアザーンの声が拡声器から流れてきたが、ウズベキスタンでは一度も聞かなかった。
ターキ・ザルガラーン18世紀の半ば以降、ブハラ・アミール国は帝政ロシアと清朝の間の中継貿易によって潤い、ブハラもまた主要な商業都市として栄えた。ひと時ブハラの商人は、日本の近江商人と同じ中央アジア商人の代名詞であった、とのことだ。その名残がタークで、タジク語でドームを意味する屋根付のバザールは人の集まる交差点上にあり、各入り口は荷を積んだ駱駝が通れるよう高く出来ている。また取引される商品の種類によって分かれていた。このバザールについては井上靖も訪れその印象を書いてあるが当時とそれほど変わらないようだ。ここは16世紀の建築で最も古く、かつ大きい。現在も観光客用に半分くらい、7-8軒が営業している。その先のアブドウラ・ハーンのテイムは更に大きく天井も高い。テイムというのは屋根付きのバザールで、入り口が1箇所だけをさし複数のドームで成り立っている。全盛期のブハラには40のタークと24のキャラバンサライ6つのテイムが存在したと言う。
このブハラ旧市街辺りは観光用に開発が進んでいるようで、いくつかの新しいホテルが出来ている。数年前に開業したアジアホテルはいかにも観光客用のホテルだ。
ラビ・ハウズとはタジク語で池の周りと言う意味で、17世紀に造られた、ハウズ(ため池)を中心とした広場。周囲は桑の老木が茂り、茶店・レストランもある。市民の憩いの場という感じだ。そこのレストランでの昼食は鶏肉のシシカバブーがでる。なかなかいけました。炭火は砂漠の中に生えている小潅木の根の部分を炭にしたものだと言うが、かなり火力が強そうだ。
昼食後アルクに。ブハラの開かれた5世紀から20世紀初めまで、ブハラを支配した様々な人々の居城となった。1920年のブハラ革命の際に7割近くが焼失し、現在も修復中。宮殿、モスク、財務省、行政局、刑務所などがあった。それらの場所は小さな博物館のようになっている。
それにしてもこの国の博物館の展示室中でみやげ物を売っている。どうなっているのと言う感じがする。ところ変われば、ですねー。 
アルクの前のレギスタン広場は6世紀にブハラが出現して以来、常に町の中心部であった。この広場とアルクの城壁の眺めは今回の旅のベスト5に入る。
ボロハウスモスク 中世のレギスタン広場には多数の美しい建物があった。その遺構がこのモスク。正面を飾る20本の高さ12mの木柱は中央アジアで一番長い。それにしても大きな木の無い国でこんな柱材(此処ばかりではないが)確保できたのは何故なのか?以前はもう少し大木が有ったのだろう。そこから歩きで町の人たちの市場となっている通りを通過する。いろいろな日用品なども売っているが、中国製が多いと言う。肉やで羊の頭なども売っていたのは驚き。
チャシマイ・アユブ タジク語でアユプ(旧約聖書のヨブに相当する人)の泉。12世紀の建物に14世紀、16世紀に増築されたので不思議な形をしている。この建物や、この近辺の40年前頃の写真を前述の本で発見したが、あまりにも大きく様変わりしていたのには驚いた。

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イスマーイール・サーマーニー廟 サーマーン朝の2代君主の霊廟。905年に完成後サーマーン朝滅亡後、長い間砂の間に埋もれていたのを1934年に発掘された。ゾロアスター教の神殿そのまま、小さい建物だが、内装、外装ともに幾何学的で見事な建造物だ。ブハラは観る所がいっぱいある。夕食は昨晩と同じホテル内のレストラン。
2月13日ブハラ発7:30.シャフルリ・サブス経由でサマルカンドへ。出発時は晴れていたがこの日は徐々に小雨がぱらつく。シャフリ・サブスに近づくと緑も濃くなり、大きな木もある。
14世紀の中国は漢民族の明時代(1368-1644)西域ではテイムール朝(1370-1507)が興る。サマルカンドを首都に、西アジア、中央アジア、北インドまで広大な領土の帝国を築く。その出身地がシャフリ・サブスだ。その中心をなすのがアクア・サライ。白い宮殿と言う意味で、夏の宮殿跡。建設に20年以上を要したと言われる。現在は高さ38メートルの門の一部が残るのみだが、それでも往時の規模の巨大さが実感される。この一帯は大きな公園となっていて市民のいこいの広場のようである。娯楽の場所が未だ少ない感じで、こうゆう所で余暇を楽しんでいる感じだ。テイムールの長男の墓やテイムールの埋葬される予定だった棺などを観る。テイムール時代の栄華を感じさせる町だ。
郊外の民家での昼食後、青の都サマルカンドへ向かう。団体ツアーだからしかたないのだろうが、昼飯ぐらい抜いても、或いはサンドイッチ程度の軽食でいいから、もう少し観て廻りたいのが実感だ。
サマルカンドについて、井上靖は「シルクロードへの夢」の中で、中央アジアで一番行ってみたいところはサマルカンドである。このいかなる記録や旅行記においても、美しいと言う形容詞を決して忘れることなく冠されている沙漠の中の都邑に立ってみたいという思いは、若い頃も50になったいまもかわりはない。単なる若い日の感傷とのみはいえないようである。この町はあらゆる民族に侵されている。アラブ人、回教徒、モンゴル人、ロシア人、いずれもこの都邑を栄えさせたり、惜しげもなく焼き捨てにしたサマルカンドの古い城址に立ったら、何人の脳裏にも、様々な民族の栄枯盛衰がそれこそ走馬灯のように廻ってくるだろう。と述べている。
シャフリサブスからサマルカンドまでの距離は2時間程度と思ったが意外に掛かる。途中の遊牧民が定住化させられたようなところの民家に立ち寄る。織物をしながら販売している所のようだ。観光客相手のようではあるが商売気丸出しではなく親切である。緑豊かな丘陵地帯でとてものどかな場所だ。丘の上なので30メートルくらいの井戸を掘っているが、塩分が強く飲めないので、家畜専用などと言っていた。別な井戸から飲み水は採っているのだろう。それにしても水が貴重なものとの認識に日本人は欠けている。
サマルカンドまでの道は大型バスが通れないところもあるので大回りしたと。後で聞いたが、北上するわけなのに東に向かって走り、後方に見事な夕日が沈む景色などを観る。はるかかなたに万年雪を抱く山脈をかすかに見るなど、いい体験ではあった。
プレジデント・パレス・ホテル着6時半。七時からホテル内のレストランで夕食。このホテルは昨年小泉首相がこの地を訪れた際宿泊したとのことだが、未だ新築間もない感じ。しかし、この大きい豪華なホテルも宿泊客は我々御一行のみのである。
2月14日ホテルを8:30に出発して、タジキスタンのソグド人の古代都市・ペンジケント遺跡に向かう。距離は50kmだが、国境線を越えるので時間がかかるかも。ソ連邦の頃の国境線は楽に通過できたようだが、独立後は警戒が厳重になったようだ。特にウズベキスタンの国境警備がやかましく、タジキスタン側はノーマーク。国境を通過する女性で金歯を入れている人が多いのに驚く、昔は金歯の人が日本でも多かったが、今では見かけないから。
ガイドのバフさんはタジクの出身ということでマルチビザを持っているので出入り自由だと言う。なんとか全員無事通過。タジク人のガイドさんも加わり、車2台に分譲して出発。
ペンジケントの遺跡に向かう途中に、ルーダキー記念歴史・郷土博物館がある。ペンジケントやサラムズの古代遺跡からの出土品・壁画の一部、民俗資料などが展示されている。旧ソ連邦時代に出来た施設のようで、照明も暗く展示品も良く見えない。更に1級品はサンクトペテルブルグのエルミタージュやタシュケントの歴史博物館に保管されているので観ることができない。
ペンジケント古代遺跡群は1933年羊飼いが見つけた資料をきっかけに発掘された。イスラム化する前のソグド文化の史料として、すこぶる貴重な遺跡。中央アジアのポンペイとも言われている。
この遺跡の訪問を切望した井上靖は、シルクロード紀行の冒頭部分に『古代ペンジケントの遺跡は、現在のペンジケントを直眼下に見下ろす丘陵の上にあった。トルキスタン山脈の支脈まで遮るもののない無数の塹壕が身を寄せ合って並んでいるような眺めである』書いている。後日この地を題材に『崑崙の玉』と言う小説も発表している。同じ遺跡の突端に立つと、天山山脈の連峰ともうひとつ別な山脈が出会うのを、40数年前に井上とまるで同じ眺めを体験することが出来る。この眺めはそうザラにあるものではなかろう。
丘を降りてペンジケントの集落のバザールの近くのレストランで昼食。此処の2種類のワインはどちらも美味しく、出来ればお土産にして日本で呑みたいと思った。
再度、国境線を通過してサマルカンドに戻り市内観光。シャーヒジンダ廟 町の外れ、アフラシャブ丘の斜面にある霊廟群。細い道に沿っていくつかの廟が連なっている。2005年頃に大幅な復元工事がなされたとのことで新しい感じのするところもある。細い通路の階段を上りながら、左右テイムール縁の人々の霊廟がつながる死者の通り。周辺は一般の人たちの墓地。この丘の辺りが1220年モンゴル侵入以前の古代サマルカンドだった。
丘を下ると、チムール帝国の首都として発展する『青の都』サマルカンドの中心レギスタン広場。広場を中心に3つのマドラッサ(神学校)が並ぶ。どのマドラッサも中庭に面した小部屋は土産物屋になっている。広場に向かって右側のシールダール・マドラッサに入る。1619-36年に作られた建造物。中庭の小部屋のひとつに伝統楽器の製造販売店があり、店主は有名な奏者でもあるようで、小泉首相が来た際演奏した写真もある。各種の楽器の演奏を聴く。
グリ・アミール廟 アミール・チムールは数十年かけてインドから地中海にかけて巨大な帝国を完成させた。チムール朝を統治した三代の君主が眠っている。ドーム内の装飾、石棺等さすが他に例を見ないほどに手が込んでいる。
此処からホテルまではいくらもない距離。夕食は昨晩と同じホテル内のレストランで。
2月15日いよいよ最終日。タシュケントまで350キロメートル約5時間の行程。ホテルを8時30分に出るが、近所のバザールでお買い物。この先、買い物が出来るところが有るかどうかも分らない。残りのスムを使い切ってしまおうと言う感じだ。乾燥フルーツ、ナッツ、刺繍の布などを買う。予定よりかなり遅れてタシュケントに着く。日本人墓地があるとのことでお参りする。第二次大戦後、旧満州から強制連行された日本人抑留者(捕虜だけでない)で帰国が叶わず亡くなった方たち79名の墓地。墓標と記念碑、ウズベク各地でなくなった人たちの名を刻んだプレートがある。
遅めの昼食は、「キャラバン」というレストラン。ウズベクの伝統美と気の置けない洋風パブがミックスされた、一風変わった雰囲気のレストラン。内装はウズベクの伝統工芸で飾られている。お客さんもおしゃれな人たちだ。タシュケントは首都だから全てに都会的で近辺は多くのしゃれたレストランがある。味、雰囲気の全てに満足。
ソ連邦時代は綿花の栽培が主な産業だったとのことで、その関連の工場などが街中に多かったようだ。それらは郊外に移転し、街は中央アジアの拠点都市として発展しているようで、豪華な住宅も多い。そのような住宅街の一郭に帝政ロシア時代の公使の旧宅を改造した工芸博物館がある。各地から集められた陶器や楽器などの工芸品や伝統的な刺繍スザニなどが展示されている。今回の旅で、博物館など観る機会が少なく少々残念に思っていた。タシケントには他にもアミール・テイムール博物館、国立歴史博物館、国立芸術博物館などもあるようだ。
前述の旧満州から強制連行された日本人抑留者たちも建設に参加したナヴォイ・オペラ・バレエ劇場を外側から眺める。正面玄関の前に噴水があり、その先に最初の晩に泊まったタシュケントホテルが見える。このホテルは、井上靖がタシュケントに来た際に宿泊している。
次に、場所はどの辺りかわからないがハムザ記念芸術研究所 に行く。ビルの5階にある研究所の展示室は日本の援助で作られた展示ケースなどもあるが、品物の割には雑然としかも照明も悪い状態で展示されている。所長さんは日本の創価大学の教授も務め、最近日本に関する本も出版した親日家だ。展示品は有名な品物も多く、日本での展覧会に何度も貸し出されているものがある。アフガンの国境に近いダリヴェルジン・テベ郊外の仏教寺院跡から出土したストッコウの作品などは1世紀の仏像の姿を偲ぶ貴重な品々だ。

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研究所を出る頃、辺りは真っ暗となってしまった。此処を最後の見学地として、後は先ほど食べたばかりでお腹はすいてないが、レストランで食事をしてから空港へ向かう。このレストランがまた素晴らしい。何で一日に2回もいい店に来るのかね!少し分散してくれたらいいのに。ウエイトレスのお嬢さん方も美人そろい。残念だったのは客席が満員でなかなか料理が出てこない。時間の都合でゆっくり出来ずに空港へ。20分ほどで空港に到着。
出国審査の際、絨毯や水差し等の買い物を没収されたり、税金をかけられる等のトラブルに巻き込まれるメンバーもいた。その点で、ウズベキスタンの観光行政はマダマダ後進国。
帰路の飛行時間は8時間くらいだったろうか、無事成田に到着。

中央アジアの地理・歴史などをもっと勉強する課題をいっぱい持ち帰った楽しい旅だった。帰国してはや一ヶ月、既に記憶は定かではない。日程表のメモを頼りに、ガイドブックなど参考に纏めたがきりがないので一旦終了。
ほんの数十年前、訪れることは夢の話だったが、今や気楽に行けるようになった。ありがたいことである
                      2007年3月12日

  1. 2007/06/11(月) 21:47:53|
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中欧の旅(1)プラハの公園にて

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5月22日から31日まで中欧4カ国紀行というパッケージ旅行に出かけた。8泊10日の旅であちこちと巡るのだからかなりの強行軍を覚悟した。ところが、最近のパック旅行はなかなか良くできていて、ソコソコに自由時間もあるし日程も厳しくは無い。ホテルも快適で、中心部を離れた場所の時もあるが公共交通機関に隣接して不便は無かった。1箇所あたりの滞在時間が少なかったのはどうしようもないがその町の概観を見る事は出来た。うたい文句は“緑深いボヘミヤの森、ヴルタヴァ川沿いにプラハをはじめ宝石のような古都が点在するチェコ、誇り高き遊牧民に先祖を持ち独自の文化を育んできたハンガリー、中央ヨーロッパに覇を唱えたハプスブルグ家ゆかりのオーストラリア。中世から時の止まった宝石箱のような町並みを堪能し、中欧を貫く母なる川、ドナウに遊ぶ。悠久の歴史に触れる中央ヨーロッパを巡る旅”の看板に偽りは無かった。

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フランクフルトを経由してベルリン。それからドレスデン・プラハ・ウィーン・ブタペスト。「何処がよかったですか?」と訊ねられたら「何処も良かった」と答えたい。それぞれに味が有った。一番期待したのはプラハだったが、ブタペストだって負けてはいなかった。今回の旅は旧ソ連圏のところが殆ど、未だに経済状況が良くない所が多い。そのため中世の町が残っていたともいえる。いつの時代にも改修工事は常にされているから何処がどのように直されたのか解からないが、かなりの努力を払って古い家屋や町並みを保存しているのは確かだ。
旅をする際、その国の歴史を知らなければ旅の感激は半減してしまう。その点、中欧の地理・歴史を殆どわからずに訪ねたのは大いに残念。ガイドブックから訪問する町の地図をコピーした程度の事前勉強では無理な話であった。どちらにしても付け焼刃の知識でなく日頃の興味と読書量が肝心だ。再び訪ねたい町ばかりであったが、次の機会に恵まれる時迄もう少し本を読んでおきたい。
5月下旬のヨーロッパの天候は寒いのではと、長袖を用意して行ったが連日の真夏日。地球温暖化の要因もありそうだ。少しパラパラの雨に出会ったときは有ったが、快晴の毎日。日没時間は8時頃なのか、9時半から10時頃までは十分に明るいから早朝から夜までかなりの時間歩き回る事が出来た。
今回の旅は中世の町並みや建築物を見るのが主な目的だった。西の谷に係わっているので庭や公園を見るのも大きな関心事であった。シェーンブルン宮殿、ベルベデーレ宮殿など王侯貴族の大庭園は見事すぎる。それより小さな街角の公園や住宅の庭、市民の広場等興味深く見て回った。
旅日記を早く纏めたいと思っているが、帰国後は想定外の出来事が次々と起きて手付かずのままである。西の谷の草引きも草の伸びに間に合わない。育つに連れて根も深くなり引き抜くのに力が要る。しかし、昨年草取りを始める前の様な人が歩けないほどの最悪の状況にはならないだろうと確信を持って言える。       2007・6・9



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  1. 2007/06/09(土) 22:34:13|
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たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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