よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

偕楽園は「一張一弛(いっちょういっし)」

偕楽園は「一張一弛(いっちょういっし)」
ブラタモリ#61水戸編、其の四


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2月17日からの3日間「エンジン01文化戦略会議オープンカレッジin水戸」と云う鳴り物入りの催事があった。
18日(土)から3月末まで「水戸の梅まつり」が開催される時期でもあり、週末の水戸市内は日頃より人通りも多かったようだ。

今回の企画は実行委員と講師に著名な経済人・文化人が並び、茨城県や水戸市も参加した官民一体の大プロジェクトだった。

運営には県や水戸市の職員が多く携わり、多数のボランテアも加わったようで、
知り合いには大忙しの方もおられたようで「御苦労さまでした」

著名人が講師として多数参加されたが、手弁当で地方文化振興のボランテア、とも思えず「地方巡業」の営業と推測した。
とは言え、内容は講師と受講者の熱意、発信者・受信者の響き合いに帰結する。

その様な状況を思うと、今回は気乗りしなく、他の予定もありプレ企画のシンポジュウムに出席したのみで、講座に出席する機会はなかった。

受講者で「感激した」と云う方も多いので、それなりの成功なのでは、と好意的に見てはいるが、成果は受講された皆様がこれからの暮らしに活かせるかどうかに掛かっている。

さて、「ブラタモリ」の場組拝見の感想文は最終回。

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偕楽園は「一張一弛(いっちょういっし)」弘道館での学びの緊張のあとの精神の安らぎをテーマとして作られている教育施設だった、と案内人。

●「偕楽園記」の碑に趣意が述べられていることに基づく。
第九代水戸藩主徳川斉昭公は、天保12年(1841)から13年にかけて偕楽園を造成したが、碑はそれに先立つ天保10年に建てられ、園を造る趣旨を公示した。

本文は大きく前段と後段に分かれ、
前段は、天地自然の間に厳存する陰と陽の相反するものの調和によって、万物は健全育成するという原理に基づく。人間もまた身体の保全をはかり、あわせて他の生物と異なる特性の修養につとめよと説いている。
後段は前段の屈伸緩急の理論を実行する場として、学び勤めかつ遊ぶという勉励と休養のバランスを常に心がける者こそわれと偕に楽しむ資格あり、として「偕楽園」と命名した真意を示している。

二代藩主・徳川光圀公は特に学問を大事にし、歴史編纂の「彰考館」を作った。
九代・徳川斉昭公は藩校「弘道館」を創設し、学びの後の休養の場として「偕楽園」を設けた。
弘道館と偕楽園は1双の施設だった。

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表門~竹林~好文亭~梅林と廻ったが、大名庭園につきものの「池」がないのは、近くにもともとある「千波湖」を池と見立てたからだという。

●江戸小石川の「後楽園」は大名庭園だが「偕楽園」は大名庭園ではなく、弘道館の付属で、戦乱が予想される状況に対応の「西方の砦・物見、梅林による兵糧供給」と考えるべきと思っている。
1年足らずで作った「偕楽園は」高松の栗林公園・岡山の後楽園・金沢の兼六園のような大名庭園とは比較できない
しかし、作庭の心は中国の西湖や水戸藩駒込邸からの不忍の池を眺めた景観に倣っている。

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「この借景も水戸藩のあるものを生かす精神」とコメントだが、借景によって成り立っている庭園は多い。

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全ては水戸藩二代藩主光圀公「水戸黄門」から始まった。
「偉い人です」が締めの言葉、そのとおりです。

先達の「あるものを大切にする」精神が、大型プロジェクト目白押しの今日、特に必要とされている。

  1. 2017/02/20(月) 17:52:13|
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笠原水道・弘道館 ブラタモリ#61水戸編、其の参

笠原水道・弘道館 ブラタモリ#61水戸編、其の参

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笠原水道に使用された石の産地を探してやってきたのは、備前町先の崖下。
線路沿いに多数の洞穴が在る。


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常磐線の「スーパー・ひたち」が通過。

この洞穴こそが、岩樋の採石場。
通常は入れないが、特別の許可を得て内部に。


●この洞穴は古代人の住居跡・水戸城に通じる隠し通路とか言われるが、笠原水道の採石跡で、僕が子供の頃は自由に出入りできた。
太平洋戦争の後、乞食の住居として使用されたことが有り、入り口をコンクリートで塞いだ所もある。
*このどれかに「ヒカリモ」が生息している。
ヒカリモ(光藻)は、日本各地の水のきれいな洞窟や池に生息する藻類で、暗所で光を反射させることで黄金色に光って見える。

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江戸時代に採掘したノミの跡が今も残っている。

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石は「凝灰質泥岩=火山灰を含む海底の泥が固まったもの)」。

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軽くて運びやすく湿地帯に沈下しない、とても都合が良い石だった。
「あるものを有効活用」が水戸藩の信条。

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水戸の町を支える岩盤なので、崩れないよう間口は狭いが奥行きが30m位。

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当時の工事の再現アニメ。

●軽い石で剥がれやすく加工がしやすく。1人が持ち運びできる大きさで30キロ位に切り出す。置いても沈み込まず耐水性もある。採掘現場から工事現場まで目と鼻の先位の距離。近場でこの様な石を見つけられたのか?
山師(鉱山学に詳しい人物}が差配詩tのだろう。との見解を水戸マニアの会「笠原水道・龍の道ウォーキング」で西原昇治さんから聞いた。(西原さんはブラタモのアドバイザーとして番組に名前も載っている)
更に、工区も分けて同時進行したので1年と云う短期間で完成したのであろうとも話された。西原さんは「水と地質」の専門家で、理論でなく現場で得た観測データと作業に裏付けられた見方は的確だ。

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第9代藩主徳川斉昭が天保12年(1841)創設した。
日本最大規模の藩校「弘道館」に。


『梅まつりの四日間しか表門は開くことはないが、今回は特別に開扉、』と説明されていたが。
●僕が水戸二中に通学していた頃は常時開かれていたし、弘道館の濡れ縁で昼寝も出来たのだ。

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弘道館の展示室に「大日本史」を見る。

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徳川光圀が編纂を始めた歴史書で、初代から100代までの天皇の治世を記した402巻。
編纂には250年の月日が掛かり明治まで続いた。


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資料集めに藩士の彰考館職員が全国に出向いたのが、光圀の「黄門様の全国行脚」になったのであろう。

全国の藩校の教科書にも採用された。

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弘道館正庁には徳川斉昭の「弘道館記」の拓本。
光圀の業績を讃へ、その結果として弘道館を設立した。との意。


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徳川斉昭(烈公)が弘道館を設立と同時期の天保13(1842)年に開設した偕楽園の表門に。

●現在は東門から入る人たちが多いが、東門は1874年に園の一部に常磐神社が創建されてからの通用門。

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門を入って竹林・杉林の「陰」の世界を抜けて好文亭に至り、南面する梅林の「陽」の世界を観るのが正しい方法。と云うように案内人は話された。


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  1. 2017/02/17(金) 18:12:56|
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ブラタモリ#61水戸編、其の弐

ブラタモリ#61水戸編、其の弐

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水戸藩は江戸と国元の水戸の両方に本拠地を構えたので藩の財政は厳しく、「あるものを活用する」倹約の精神で城下の整備にあたった。

城下町なのに石垣も無ければ天守閣も無い珍しい城下町。
城下を拡張するのも自然の地形を利用した。

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南町広場から案内人の小野寺淳さん(茨城大学教授・歴史地理学)が加わる。

小野寺さんは江戸時代の地図を研究している。

水戸城は、北に「那珂川」南に「千波湖」に挟まれた台地の上に形成された。

城下町を拡大するために新たな濠を作ることに。
この図の④と⑤

佐竹時代の西の端がこの辺りで、南北に貫く太田街道が境界。

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紀州堀・今は「梅香トンネル」につながっている。(南町から千波湖方面)
この、向って左側が濠の跡、

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南側から北側の濠の跡を眺めると、(2・16.高橋が撮影)
埋め立てられたが、今でも数メートルの高低差がある)

旧鉄砲町の通り、現在の「五軒市民センター」前の通りに作られた濠なのだが、(今では痕跡もない。)

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その延長に気象台横の崖に連なる。

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「あるものは利用する」の精神。



●⑤のルートについて、番組では触れていないが現在の「西の谷」。
金魚坂を経由し、栄町~八幡宮に至る経路。

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城の東側の湿地帯を埋め立て拡大することに。

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湿地は飲料水の確保が難しく、新たな水源を探すことに。

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選ばれたのが「笠原の湧水」を使用した水道。(末尾に笠原水道の解説付けました)

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案内人の 安藤寿男さん(茨城大学 地質学・古生物学教授)。

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湧水は、透水層と不透水層地層の間から流れ出る。

●この地層の話と笠原水道に関しては水戸マニアの会が主催する「笠原水道・龍の道ウォーキング」が1月22日(日)に開催され、水の専門家の西原昇治さんと、茨大の天野先生の話を聞きながら実地踏破をしたので理解が深まっていたので納得。

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湿地帯を崖線沿いに暗渠の岩樋を使用して通水したが、そこには逆転の発想が。

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水を漏らさずではなく、隙間を利用して湧水を取り込みながら流量を増やし通水する、これまた今回のテーマに沿った考えの実践例。

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●笠原水道
2代藩主徳川光圀は藩主就任直後の寛文2年(1663)町奉行望月恒隆に下市の水不足に対処するための水道設置を命じた。
調査に当たった平賀保秀は笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当した。笠原から逆川に沿い藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、備前堀を銅樋で渡して市街に入り、細谷まで全長約10kmの水道が翌年完成する。

以後、街の人達の共同管理により運営され、昭和7年、那珂川を水源とする、水戸市近代水道の完成によって、笠原水道は幕を閉じた。

  1. 2017/02/16(木) 17:45:41|
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ブラタモリ#61水戸編、其の壱

ブラタモリ#61水戸編、其の壱

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昨年末、「タモリを南町で見かけた」「常磐線の線路脇の洞穴に居る」などの情報があり、現場に駆けつけたが一足遅く、ロケ終了で間に合わず。
何処をどの様に取材したのかの放送を楽しみにしていた。
ついに、水戸編が1月28日(土)午後7時30分~8時15分に放送された。

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水戸駅前の黄門像の前に降り立ったタモリさん。
「水戸黄門は なぜ人気があるのか?」が今回のテーマ。

案内役は関口慶久さん(水戸市教育委員会歴史文化財課)

「実は生きている頃も大変人気だったんです」と関口さん。

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亡くなった時に詠まれた狂歌『天か下 ふうたつの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門』を紹介。

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徳川御三家の「水戸徳川家」はどんな藩だったのか?
良く分かる場所へご案内と水戸城跡にむかう。

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堀には水郡線の線路が走る。

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番組では紹介されなかったが、この土塁の延長右端に明治時代初期まで隅櫓が建っていた。

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本丸跡は茨城県立水戸第一高等学校。

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タモリさんの大学時代のバンド仲間が下館出身で水戸一高の卒業生だった。
●私の母校でもあるから嬉しい。

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本城橋を渡って校内に、随分贅沢な場所だな~。
本丸跡の全てが敷地。

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佐竹時代唯一の遺構「藥医門」が校庭に。
水戸は佐竹氏の支配だったが、関が原で態度を明確にしなかったので秋田に移封され水戸藩が誕生。
(この門は僕の在学時代は他所に在って、その後、現在地に再建された)

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初代水戸藩主・徳川順房(1603-1661)時代から支出が収入の倍以上という赤字財政なのは何故?

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水戸と江戸の両方の屋敷の運営費。

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江戸の方が多いのは御三家の大名としての体裁を保つためでもあり、国元にかける経費までは回らなかったのが実情だろう。

●水戸家のみ参勤交代のない定府(常時・江戸詰め)制で参勤交代の費用が掛からないいと思っていたが、江戸と水戸に家臣を配置するのは、経費がかさむ仕組みだった。
大日本史作成の費用が膨大で苦しいと信じていたから、意外な事実に驚いた。

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財政難の水戸藩は「あるものを最大限に活用する」ことで乗り切った。
質実剛健の気風と云えば聞こえがいいが、倹約第一の質素な暮らし。

●赤字財政もなんのその、大型プロジェクト目白押しの現在の市政運営、先人に大いに学ぶべきことだろう。
  1. 2017/02/15(水) 16:11:33|
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『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』@フジテレビ

『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』@フジテレビ

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5年程前から月に4~5日間を東京北区の王子で過ごすようになった。
王子駅の脇に「飛鳥山公園」があり、江戸時代からの桜の名所で緑が豊か。
東京で唯一の路面電車、荒川線も走っている。
荒川線を挟んで、王子神社の下に石神井川の親水公園もある。

王子銀座を含め、昔からの商店街が点在している。
閉じた店が増えたが、豆腐屋・八百屋・雑貨屋・米屋・魚屋・肉屋等。銭湯も少なくなったにしても、10軒以上はあり、下町の風情が遺されている。
通りに面して、草花を育て、季節の花を楽しんでいる家も多い。
そんな街を背景に、天野頌子「よろず占い処 陰陽屋シリーズ」の漫画を原作とするテレビドラマが火曜日の夜10時から、フジテレビ系列で放送が始まった。

自称陰陽師の阿倍祥明に扮する錦戸亮(関ジャニ∞)は霊能力が皆無なのに、よろず占い処『陰陽屋』を開業する。
南野陽子と知念侑李が扮する親子が最初の客として飛び込んだことから始まる
騒動が、クールな推理を交え解決する。」

杉良太郎、見栄晴、濱田マリ等の助演者は分かるが、主演の錦戸亮、知念侑李を知らず、原作も読んでいない。
題名から想像した占いオカルトの要素は少なく、下町商店街的の人情話で面白かった。
ロケ地は梶原銀座商店街で王子銀座とは少し離れた場所だが、あくまでもフィクション。
見慣れた光景も随所に現れ、興味深いドラマで次回以降も楽しみ。
12月まで毎週放送されるらしい。
  1. 2013/10/09(水) 18:20:47|
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プロフィール

たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
私が別に運営している「西の谷万葉公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。
重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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