よーちゃんの雑記帳  

街と人との出会いが楽しみ。

那珂川の献上鮭@水戸市城東

那珂川の献上鮭@水戸市城東

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『常陸国風土記』(奈良時代初期の713年に編纂され、721年に成立した常陸国・現在の茨城県の大部分・の地誌)に現・日立市助川で鮭を獲っていた記載があるとのこと、常陸の国は鮭の遡上の南限と云われる。
江戸時代も那珂川を登るサケが珍重され、その年初めて獲れる「初サケ」は必ず藩主に献上され、光圀も毎年必ず食べていたという。
初サケは麹と塩で漬けられ、江戸に献上されたが、水戸で漬けたサケが江戸に運ばれるうちに、ちょうどよい漬かり具合になったのだそうである。
塩麹、最近はやりの言葉、と思ったが、考えてみれば本来の保存の方法だ。
「初霜漬」と呼ばれるこの逸品、こんがりと炭火で焼き上げる。熱々の新米で戴けば、正に、水戸の秋だ。

我々の子供の時代も、那珂川の鮭は秋の味覚。
卵を醬油とみりんに漬け込む。白子はお澄ましの具に。骨や頭はアラ汁にと、全てを食べつくした。
北海道産や外国産が主流を占める時代になったが、秋になれば「那珂川の鮭」を食べたくなる。
幸い、近所の魚屋に10月頃に少量だが店頭に並ぶ。
身の色は赤くなく薄いオレンジで脂は載っていないが、これがサッパリとした鮭本来の味。養殖のノルウェーサーモンとはまるで別物。
脂の乗ったものを好む最近の風潮は、味覚を狂わせてしまったようだ。

那珂川の鮭漁は水戸藩が特定の家に対して免許を下していたが、戦後は漁業組合が管理し、捕獲と採卵、人工ふ化をして稚魚を放流する方法に変わった。
人工ふ化に関して、那珂川は早い時期から取り組んできた。

今年も10月に3度ばかり味わうことが出来た。
漁の期間は9月から10月までと思っていたら11月末までらしい。
那珂川流域の何か所かで「鮭の流し網」が行われている。

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水郡線の鉄橋下流、「新寿橋」の間の漁場を見に行った。
二隻の船が、長さ約100メ-トル深さ5.6メ-トルある網を川いっぱいに広げて流し、一定の時間を経て引き上げる。
漁期の始まる9月前に川底をダイバーを入れて清掃しないと、流木が絡んだりして上手くいかないので、厄介らしい。

昔ほど高価で取引されないが、自然味わいが人気で、築地の市場にも出荷され人気が有るようだ。
  1. 2014/11/09(日) 11:45:50|
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会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

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茨城県立歴史館の「会沢正志斎」展(9月29日迄)の記事をアップしたら「水戸市内にある会沢正志斎の銅像は父の作品です」と書き込みを受けた。
はてさて、その像は何処か?と一瞬迷ったが、住友生命水戸ビル前のポケットパーク建立されていたのを思い浮かべた。
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餌差町(旧・鷹匠町、現・梅香2丁目)生まれとも伝えられる、会沢正志斎(1782年~1863年・82歳没》は9歳にして四書五経を学び、10歳で藤田幽谷に入門、18歳で彰考館に入り、22歳で江戸に移り1820年39歳で水戸に転居。
その間、任地の大阪で死亡した父の遺骨を受け取る旅に出で、伊勢・吉野。京都を巡った。41歳の時は駿河、伊豆を巡り富士山に登る。42歳で彰考館総裁代役となる。1824年・43歳の時、大津浜に上陸したイギリス人の捕鯨漁船員の取り調べの筆役と赴き、海外の事情に触れ危機感を感じ翌年『新論』を著わし藩主に提出。

『新論』沈滞した民心を振いおこして国防を強化し、内外から迫りくる政治的危機を克服し、国家の富強を実現するための方策を明示するところにあり、尊王と攘夷は、その民心糾合の手段としての意味をもっていた。
幕府にはばかる内容と出版は禁止されたが、写本が行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布し,水戸に発達した学風である水戸学の書物としても伝わった。刊行されたのは1857年76歳の時で、斉昭復権運動の罪に問われ1846年(65歳)から4年間幽閉され復権した後の事だ。
1852年吉田松陰は永井政介宅に1ケ月逗留し会沢正志斎に教えを乞うた。

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南町の旧宅の反対側に建つ会沢正志斎像は、小鹿尚久(1922-2011)作で、平成4年3月に建立された、『下級武士出身の正志斎があの大津浜の岸頭に天の一角をにらんで、潮風に吹かれながら立つ姿を思って制作しました』と生前語っている。
優しい女性像、或いは男女の子供、小鳥などの小動物を得意とした小鹿さんの作では珍しい作品だ。

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安政時代の地図と照合すると、この辺りらしい。

江戸時代に82歳まで生きられ、長命な方で、更に江戸に住まい、京にも旅し、抜擢されたり幽閉されたりと波乱の人生を送ったから、住まいも何度か変わった。一晩をかけて足跡をたどっって、いくらかの理解は深まった。
混迷の時代、将来を見据えた政策を提言した会沢正志斎を見直してみる必要がありそうだ。
  1. 2013/09/26(木) 11:01:57|
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「歿後150年 会沢正志斎」展@茨城県立歴史館

「歿後150年 会沢正志斎」展@茨城県立歴史館

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会沢正志斎

茨城県立歴史館の開館は1974年、40年を経過した。
開館後しばらくの間、多くの企画展が開催されて楽しみだった。
10年前頃か(正確には覚えていないが)2階が常設のジオラマ展示になってから、これぞという展覧会が少なくなった感じがする。
予算の減少によるのだろうが、文書館としての役目もある博物館ならではの企画展に期待するほかはない。

さて、今回の「会沢正志斎展」は幕末の歴史に大きな影響を与えた水戸学の理論を確立した人物に焦点を当てた企画展。

歴史館のHPには次のように記されている。
水戸藩の儒者会沢正志斎(天明2年〈1782〉~文久3年〈1863〉)は、幕末の尊攘運動の理論を確立したことで有名ですが、近年、その思想が再評価されてきています。たとえば、評論家の中野剛志氏は「プラグマティックで健全なナショナリズムから学ぶべきことは大きい」とし、伊藤仁斎、荻生徂徠、福沢諭吉と同列に位置づけています(同氏『日本思想史新論』)。

 正志斎は10歳のとき、8歳年上の藤田幽谷のもとに入門、35年間にわたりその教えを学び、生涯に『新論』をはじめとして多くの著作を遺しています。それらは、深い儒学の素養、的確な世界情勢の認識に支えられていました。
 とくに、文政8年(1825)に著した『新論』は、幕末の尊攘運動の理論的出発点となった名著です。当初出版されなかったにもかかわらず密かに写されて広まり、全国の志士たちに大きな影響を与えています。久留米藩の真木和泉(保臣)、長州藩の吉田松陰らは水戸を訪れ、正志斎から直接教えを受け深い感銘をうけています。

今日(23日)11:00から学芸課長永井博氏の展示解説があり、お聞きしたこと
を纏めてみた。

大津浜イギリス人上陸1
文政七年(1824)異国人上陸図

ペリーがやってくる30年前、水戸藩の大津にイギリスの捕鯨船員が上陸。
この出来事によって水戸藩では外国人を追い払おうという攘夷思想が広がっていく。

新論

会沢正志斎は筆談役として現地に赴き、報告として藩主に提出したのが『新論』だった。
いわば内部文書が、書き写され全国に広まっていった。

その後、斉昭のもとで、藩政改革ブレーンの一人として活躍、とくに弘道館創設には、組織、内容の制定に情熱をもって取り組んだ。
教育の総責任者たる教授頭取をつとめ、幼き日の徳川慶喜など斉昭子弟の教育にもかかわった。

『新論』のあらましは幕府を中心とした内政改革、国家としてのまとまりを実現する。単に鎖国を維持するのではなく国力を増し、将来的には海外進出を目指すとした。

1824年(43歳)大津浜にイギリス人が上陸。
1826年(45歳)『新論』藩主に献上。 
1852年(70歳)吉田松陰が訪れる。     1
1853年(72歳)ペリー来航に際して、対応策を斉昭親子に提出。
1858年(77歳)朝廷に返納すべきと主張。
1860年(79歳)桜田門外の変の襲撃を「天誅の事その身の職に非ず」として非難。
1862年(81歳)『時務策』は軽挙妄動を戒める。
1863年82歳で死去。

40代後半から70代にかけては、徳川幕府や水戸藩の事情により、幽閉や史館の辞職と復帰など歴史の波に翻弄された。
  1. 2013/09/23(月) 23:35:51|
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たかはし よういち

Author:たかはし よういち
離俗の世界に憧れながら、市井の片隅でうごめいています。
ささやかなモノやコトに幸せを感じます。
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重複する記事も有りますが、自然を大切に、簡素な生活を。
の気持ちを大切にしたいと思います。

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