よーちゃんの雑記帳 「旅」と「骨董」  

知らない街へ行くこと、新しいモノを発見すること。

魯山人の書

魯山人の書

魯山人に関してもっと知りたい、との思いの念は強く、笠間の茨城県陶芸美術館で開催されている「北大路魯山人と岡本太郎展」(9月22日ー11月25日)を再度観に行った。
展覧会のために作られたリーフレットには次のように記された文が掲載されています。

魯山人の書・・・・
マルチな才能の原点
書家・美食家として知られ、マルチな才能を発揮した北大路魯山人(1883−1959)。魯山人は10代の頃、書の懸賞に入賞を重ね、その才能を生かして看板書きなどで生計を立てていました。20歳そこそこで「書家」としての自信を深め、明治38年(1905)、22歳で岡本太郎の祖父で書家の岡本可亭の内弟子となります。可亭から才能を認められた魯山人にとって、岡本家での生活は将来に大きな影響をもたらすことになりました。
独立後、魯山人の書の才能は紙の上だけにとどまらず、木に書を刻む「刻書」や、「篆書」等の書体を石に彫って作る「篆刻」などへと広がりを見せます。

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以上のような観点から今回の魯山人展には《いろは金屏風》の大作を初めとして看板としての刻書、陶印、書状、掛け軸、壷・皿等に字を書くなど書を作品主題とした物も多く展示されています。
魯山人は稀代の書家、篆刻家、画家、作陶家、料理人として多面的な能力を発揮しました。或る地域でマルチな才能を発揮している人を魯山人にあやかり「◎◎の魯山人」と呼ぶ事さえあります。
しかし、その生い立ちは恵まれてはいませんでした。5歳で養子縁組し里子となり、小学校卒業した10歳のときには丁稚奉公に出され、13歳で奉公先を飛び出し独学で書を学びます。16歳の頃に西洋看板(絵付の看板)の制作が評判となり収入も増えました。生活も安定したので古画や古書を買いあさり、それらを教科書として、ひたむきに勉強します。それらの体験から上流志向の性格が形成されたのでしょう。
魯山人の才能は、先ず書と篆刻で花開きました。多年にわたる習書によって身につけた高度な表現技術と鋭敏な美意識は彼の旺盛な芸術活動を貫く根幹を成しました。
書に限らず、優れた美術品を常に身辺に置き、使いこなすことで先人の工夫を学びました。

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更に、魯山人は辛口の美学者として、出版人としての活動も含まれます。
個人誌の『星岡』『雅美生活』『独歩』などを刊行し、それらの評論を後に平野正章が纏めて、『独歩−魯山人芸術論集』(1964年刊)と『魯山人味道』(1974年刊)『魯山人陶説』(1975年刊)『魯山人書論』(1980年刊)は三部作として刊行されました。これらは魯山人を理解する大きな役割を担っています。近年に文庫本として再版されましたので入手し易くなりました。
今回の展覧会で図録と一緒に文庫本もミュージアムショップで販売されていたので、『魯山人書論』を買い求め読みました。僕は字の書き方が粗雑で自分で書いた字が自分で読めなくなるほどです。魯山人は「書を見ただけで人柄を判断できる」といっています。誠そのとうりでしょう。これからは、一字一字を丁寧に書きたいものです。



  1. 2007/10/12(金) 13:46:33|
  2. 骨董
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骨董・古美術品の“イ・ロ・ハ”

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     (画像撮影・木村功氏)天平時代の大安寺古瓦〜うたたね展


何処の国でもいいから旅をして、未知なるものを体験したい。自分の心が安らぐような焼き物を初めとした骨董・古美術品に出会う機会に恵まれたい。この二つが僕にとっての関心・重点事項だ。
どちらも“美しいもの・心が安らぐもの”と言う共通するものが有る。単に美しいと言うだけでなく、その背景或いは根本にある歴史や文化を知らなければ視えて来ない点が重要なことである。“眼で見る”が基本だが知的な要素が加味されないと楽しみが半減してしまうのが子供の物集めとは異なるが他は同様だ。
何かにのめり込むと、奥が深いから楽しい、と言う。奥が深いのは識る事の楽しさが繰り返し出てくるからだろう。

このブログは旅と古美術の二つの項目を主眼としてスタートした。残念だが、未だ思うような方向に進んでいない。先ず書きながら自分の頭の中の考えを整理したい。その内何かが見えてくるだろう。

先輩が亡くなって数年たち、故人の集めた物を処分する相談を受けた。具体的に処分するというより、もし売るとすれば、いくら位で売れるか?との話しだ。僕は茨城県公安委員会交付の「古物商許可証」を所持し(犯罪者で無い限り誰でも貰うことは可能)古道具屋の真似事のようなことを数年経験した事が有る。骨董の泥沼に落ちて40年くらい抜け出せずにいる。という事でお声がかかったようだ。しかし、最近は古美術店を歩くことも稀だし売り買いもご無沙汰している。そのような訳で見せられた品物が具体的に幾ら位なのか?は判らない。高いのか・安いのか或いは値段の付くものか・付かないものか、の見当がつく程度だ。人それぞれの蒐集の仕方が有る。僕は僕なりの考え方を述べた。
蒐集品をどう考えるか?はとても大切なことだ。

イ.買い求めた骨董・古美術の蒐集品は本人が生きている間に処分すべき、と僕は考えている。本人にとって執念を込めた宝物であっても、遺された者にとっては単なるガラクタにしか過ぎない。と感じる場合が多々ある。或いは、好きな物ではないが金銭的な価値が有るかもしれない。とあちこち聴いて回ったりする人達もいる。大体において本人が考えていたほどの価値が無いのが一般的だ。テレビの番組で「お宝鑑定団」というバラエティーが有るがそれなどによくある話だ。
本人の周り(遺族を含め)に誰かそれらの物が好きな人がいれば、差し上げるか或いは金銭で受け渡しするのも良かろう。人の命より物の命が永いのは当然で、それだからこそ良い物は永遠とは言わずとも永い間、手から手へと渡って行くのである。

ロ.価格に関しては古美術商も一般の物販業と同様で、最低2-3割の利益は必要だし、やたらに回転する業種ではないから、もう少し利幅が無いと成り立たない。そうなると定価の半額位の仕入れが妥当だろう。直に転売する際は小額のマージンの時もあれば、珍品であればかなりの利幅を取れる品も有るだろう。
製造して販売する商品とは違うので製造原価に基づく価格の決定ではない。という事で価格の設定はかなり曖昧な所がある。だから、古美術品の価格に不信感を持つ人が多いだろう。
しかしながら、品物・作品を構成する多くの要素、作者或いは生産地、時代、真贋、かたち、いろ、素材、完結度、状態、来歴、人気、等等。それらを総合的に評価した価格と言うか相場のようなものが形成される。買い手と売り手(店と客)は自分自身の考える踏み(価格)を頭に入れて価格の交渉をする。勿論、定価がついている店も多いが、ある程度交渉の余地はある。
最近欧米型のオークション会社による入札或いは競りによる売買も増えてきた。それが本当に妥当な価格なのか?の疑問も有るが、より適正な価格が構成される要素は有るので今後は更に一般化していくことだろう。

*以上のような訳で、買った品物を売却しようとした場合、買値或いは買値を上回ることは稀である。半値で売れれば上出来で買値の3割ならば普通、最悪の場合一割と思うべし。「そんな―」と思う方も居るかも知れない。気に入った“ものを買う”と言う行為に3割の楽しみ料を払った。次にその品を所持することにより眺める、撫でる、花を挿す、自慢する等の満足感で3割。そこまでで買値の6割は使われた。ならば、現物の価値は買値の3割位が妥当だろう。美術品は経済的な取引であるより品物を通した心の問題のほうが大切。具体的な品物を買ったというより形のない・品物の背後にあるロマンを買ったともいえるのだ。事ほどさように美術品に対し経済的に過大な期待はしないほうが良い。

ハ.大なり小なり誰もがブランドの魔術に惑わされる要素を持っている。作品のそのものより作品にまつわる諸々のことに眼が行きがちになるものだ。形や色など美的であるか?自分の心に響いたか?好みに合うか?など素直に見ることが一番大切なことであろう。純粋に作品と対峙して買うか買わないか、売るか売らないか等を自問自答した上で自分自身で決定すべきだろう。
  1. 2007/06/28(木) 10:04:55|
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水戸市のタカハシヨウイチです。趣味の骨董や美術、旅のことなどを徒然なるままに書いていきたいと思います。私が別に運営している「西の谷公園を美しく」のブログは、以下のリンクからアクセスしてください。

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